「イエスという名」
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ルカによる福音書2章15~21節
今日、わたしたちは新年礼拝の時を持っています。先日、娘に聞かれました。「ねえ、何で教会でも元旦に礼拝するの?」。お寺では除夜の鐘が鳴らされ、神社は初もうでの人たちでごった返します。でも教会の暦って降臨節から始まるわけで、その日に「今日が一年の始まりです」と牧師は語っているわけです。娘がそこまで理解して質問してきたのか、はたまたお正月の礼拝がなければもっと旅行も行きやすいのにと思ったのか、それはよく分かりません。そこで娘には、このように答えました。「教会はね、この日が元旦だから礼拝するわけではないんだよ。聖書に書いている、あることを基に、礼拝しているんだよ」と。
さて、今日先ほど読まれた福音書ですが、天使から喜びのメッセージを聞かされた羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋に行き、赤ちゃんイエス様を拝んだということが書かれています。でも一番のポイントは、最後の1節、21節に書かれたこの言葉なんですね。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
イエス様のご降誕をお祝いしたクリスマスが12月25日。ユダヤでは日を数えるときはその日、つまり25日も含めますので、ちょうど8日目が1月1日となります。つまりイエスという名前がちょうどこの1月1日につけられたから、そのことを記念して礼拝しましょう、というのが理由なわけです。子どもが生まれたら、男の子だったら八日目に割礼をおこないなさい。そしてそのときに名前を付けなさい。ユダヤではそのように定められていたので、マリアとヨセフもその慣習に倣って実行したということが聖書には書かれているのです。
ただし、他の家族と決定的に違ったことがあります。それは「イエス」という名前は既に決められていたということです。ルカ福音書1章30から33節には、天使ガブリエルがおとめマリアに対して受胎告知をした場面が書かれていますが、そこにはこうあります。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
今読まれたように、「その子をイエスと名付けなさい」と命じたのは天使ガブリエルです。ただガブリエルはあくまで神さまのメッセンジャーですので、神さまがそのようになさったということを聖書ははっきりと書いているわけです。
神さまが名付け親になる意味、それは二つあると思います。一つは、その生まれた幼子は神さまの意思、そして聖霊によって与えられたものであるということを明確にしたかったということ。つまりその子は「神さまの子ども」であることをはっきりさせたかったのではないかと思います。
そしてもう一つ、それは幼子の名前を通してメッセージを伝えるということです。神さまはどのような思いで、この幼子を人々の間に生まれさせたのか、そのみ心を名前によって示すということです。イエスという名前、それにはこのような意味があります。「主は救う」あるいは「主は救いである」。つまり、神さまはイエス様を通して、わたしたち人間を救われるのだということなのです。
神さまはそれまでも、人間と関わろうとして来られました。旧約聖書には様々な預言者が登場します。彼らは時に厳しく、人々に訴えかけます。「あなたたちはこのままではダメだ。神さまの前に正しい生活をおこないなさい。神さまの前に清くなりなさい。悔い改めなさい」。しかし人々は、何度も神さまに背きます。神さまの前に罪を犯してしまいます。旧約聖書を読むと、その繰り返しなんですね。ある人がいいました。聖書は罪の見本市だと。ありとあらゆる罪が書き記されているのだと。
わたしたちも、その罪を土台として生きています。何とか正しい者であろうとしても、なかなかそうはいかない。わたしは高校3年生のときに、洗礼を受けました。洗礼を受けたら、自分の心から悪い思いはなくなってしまうと思っていました。もう神さまの「良い子」になれると信じていました。でも、現実は全く違いました。前と同じように嫌な考えが頭に浮かぶ。ついつい余計なことを口にしてしまう。人を傷つけてしまう。そのような毎日が続いていったわけです。どうしても自分の力で神さまの前に清い者となれない。わたしはそんな一人ですし、きっとみなさんの中にも同じ思いを持たれている方は、多いと思います。
神さまはその状況を見かねて、一つの決断をくだされました。それがイエス様をわたしたちの間に遣わすというものです。そしてその思いが、「イエス」という名に示されています。つまり主は救い、神さまは救われる。どうしようもないわたしたちを救われるために、イエス様を遣わされた。わたしたちを救いたい、これが神さまの思いなのです。
わたしたちはその神さまの思いを受け止め、告白するわけです。「イエス・キリスト」と。イエスというのは神さまが付けられた名前、神さまから与えられた、あなたたちを救うんだという思いです。そしてキリストというのは、名前ではありません。キリストとは称号です。メシア、油注がれた者、救い主。そういう称号です。わたしたちが「イエス・キリスト」と唱えるとき、わたしたちはイエス様を受け入れ、わたしたちの救い主として認めますという信仰告白をしていることになるのです。
この一年の初めに、神さまがイエス様を通して、わたしたちに大いなる愛をお与えになっていることを、心から感謝いたしましょう。わたしたちの前には、決して順風な道だけではなく、逆風が吹き荒れることもあると思います。でも大丈夫です。安心してイエス様に従って歩んでいきましょう。そして何があったとしても、多くの祈りの友がいてくれます。共に祈りつつ、過ごしていくことが出来ればと思います。
神さまの祝福が豊かにありますように、お祈りしております。