「隅の親石」
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マタイによる福音書21章33~43節
今日の箇所を「解説」している本を見てみますと、ぶどう園とはこの世界のことだと書かれています。この世界を神さまは、イスラエルの民に任せていました。彼ら自身も、自分たちはアブラハムの子孫であり、選民、選ばれた民としての自覚を持っていました。その代表がファリサイ派や律法学者といった人たちです。
ところが彼らはぶどうの収穫の時期が近づいて来て、主人の僕がその収穫を受け取りに来たにもかかわらず、その僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺しました。さらに送られてくる僕たちに対しても、同じことをしていきました。それはね、と解説書は語ります。その殺された僕たちは、神さまが送られた預言者なのだと。旧約聖書を読んでいくと、幾人もの預言者が立てられますが、イスラエルの人々はその預言者の言うことを聞かず、しまいには殺してしまったと。
さらに主人は、自分の息子をぶどう園に遣わします。ところが農夫たちは、その跡継ぎまでをも殺してしまって、相続財産を奪おうとした。これがイエス様の十字架なのだと。その十字架の結果、ぶどう園はその農夫たちから奪われて、他の農夫に与えられるに違いない。そして言うわけです。最初にぶどう園にいた農夫たちとは、ファリサイ派や律法学者だ。イエス様を受け入れずに追い出し、十字架にまでつけてしまった。何てけしからん人たちなのか。だから神さまは新しい農夫を連れてくると。それが異邦人や罪人なのだと。
その人たちが、ぶどう園に招かれるのです。わたしたちはどうでしょう。ファリサイ派かというとそうではない。律法学者でもない。ユダヤ人ではないから異邦人。またどっちかというと罪人に近い。だからぶどう園に入れてもらえる。よかった。よかった。
多くの解説では、これはユダヤ人に対する罪の宣告なのだと言います。あなたたちはぶどう園から追い出される。確かにそれはそうでしょう。しかしそこで終わってしまうと、わたしたちにとっては単なる昔ばなしでしかありません。
しかし今日のイエス様の言葉は、紛れもなくわたしたちの心に向けて語られている警告なのではないでしょうか。少しだけ、今日のイエス様のたとえ話を、今のこの状況に置き換えて考えてみたいと思います。ぶどう園、それは教会です。わたしたちは神さまに招かれて、このぶどう園に来ました。そしてそれぞれ与えられた賜物に応じて、神さまのみ心をおこなっています。
しかしそれは、イエス様がおられた時代の、ファリサイ派や律法学者たちもそうでした。彼らはユダヤ教のいわばエリートでした。神さまから与えられた律法をしっかり守り、それこそ「こうすることが神さまのみ心にそっている」と考えていることを、一生懸命にしていたわけです。でもそれが、少しずつ変わっていくのです。わたしたちもそうだと思います。わたしたちは教会に連なり、たくさんの恵みを与えられています。すべてのものは神さまからのものです。しかしいつの間にか、わたしたちは自分の力でぶどう園を切り盛りしていると勘違いしてはいないでしょうか。
その果実は、自分たちの努力で得たもの。自分たちで得たものだから、誰にも渡さない。神さまがその収穫を受け取りに来ても、わたしたちはその僕を追い出し、うち叩き、殺してしまう。収穫を渡す気がないのです。豊かにみのっても、神さまにささげることをしないのです。そのような現実に気づかされることはないでしょうか。
今日、奈良基督教会では久しぶりに聖餐式をします。新型コロナウイルスの感染防止のために、しばらくみ言葉の礼拝をおこなってきました。本当に久しぶりの聖餐式です。昨日、祈祷書の聖餐式の文言を改めてじっと見ておりました。そして、わたしたちはなぜ聖餐式をするのだろうということを考えていました。
なぜわたしたちは聖餐式をおこなうのでしょうか。イエス様がそうしなさいといったから。イエス様の体と血にあずかって生かされるため。いろいろあると思います。でも昨日、今日の福音書のイエス様の言葉を噛みしめながら、「ささげるって何だろう」と問いかけていました。
前に勤務していた幼稚園では、毎週の礼拝の中で献金をささげるときに、このような歌を歌っていました。
「おささげしましょう この宝 神さま 神さま ご用のために おささげしましょう この宝 アーメン アーメン」
ささげるというとわたしたちはすぐに「献金」を思い浮かべてしまいます。確かにそれも一つです。でも聖公会の聖餐式の式文の中には、「献金」というタイトルの箇所はありません。あるのは「奉献」という箇所です。奉献も献金も一緒じゃないか、という声が聞こえてきそうです。
しかし、以前にはこの教会でもパンとぶどう酒を後ろから持ってきていたように、これも大事な供え物です。実は奉献は、献金ありきではないのです。緑色の祈祷書をよく読んでみると、このような一文があります。信施を集めないときは、「 」内の言葉、つまり信施という言葉を省くと。
つまり聖餐式の中で必要なものは供え物であって、信施、献金はその次なのです。さらに感謝聖別の中、司祭の祈りの中にこのような言葉があります。「どうかこの感謝・賛美のいけにえを天の祭壇に至らせ、大祭司であるみ子によってお受けください」。
感謝・賛美のいけにえ、わたしたち自身をどうか受け取ってください。神さま、どうかイエス様によって、わたしたち一人ひとりを、どうぞお受けください。わたしたちはこの聖餐式の中で、ただ与えられるだけではない。自らを神さまにお委ねし、ささげていく。そのことを求められているのです。
ぶどう園で働く労働者たちは、すべてのものを自分たちのものにし、相続財産まで手に入れようとしてしまいました。そしてその跡取りをも、殺してしまいました。収穫すら渡すことができない。それではダメだとイエス様は言われるのです。 そうではない。自分自身をささげなさい。教会も、礼拝堂も、そしてわたしたち自身も、すべてのものは神さまから与えられたものです。すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主にささげるのですと心から祈ることができるようにと願います。
この礼拝の中でわたしたち一人ひとり心を砕かれ、自分をささげよという呼びかけに耳を傾けましょう。教会が神さまに喜ばれるぶどう園となるために、わたしたちがふさわしい実を収穫し、神さまにおささげできる労働者となるように、共に歩んで行きたいと思います。