2022年11月6日<聖霊降臨後第22主日(特定27)>説教

「神によって生きる」

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 ルカによる福音書20章27~38節

 今日の箇所で、何人かのサドカイ派の人が近づいて来て、イエス様に尋ねたそうです。サドカイ派の人たちは、天使とか復活ということを信じていませんでした。そのため、彼らとファリサイ派の人たちは、いつも対立していました。

 その中でサドカイ派の人たちがイエス様に対しておこなった質問は、「復活があるならば」という前提でなされています。イエス様がご自分の復活について言及されていたことを、どこかで聞いたのかもしれません。あるいはイエス様がイザヤ書などの預言者の言葉を引用されるのを聞いて、イエス様の考え方も復活信仰に近いと感じていたのかもしれません。ともかくサドカイ派の人たちは、イエス様に「一人の女性と七人の夫」の話を持ち出します。ただ、どうでしょうか。この話を聞いた時に、心の中にモヤモヤしたものが感じられたのは、きっとわたしだけではないと思います。というのも、この女性の立場になってみると、とても辛かっただろうと想像できるからです。七人の夫が次々と彼女の夫となっていきます。周りの人は、「早く跡継ぎを」と願います。しかし次から次へと夫に先立たれていくわけです。

 当時のユダヤでは、神さまの祝福は目に見える形で与えられるものだと考えられていました。財産、健康と長寿、そして子孫繁栄。これらのことが、神さまの祝福のしるし。逆に言えば、そのような状態にない人は、きっと陰で罪を犯していたに違いないと考えられていました。貧しい人、病気の人、早く亡くなった人、家族を早く亡くした人、そして子どもが出来ない人。それらの人は自分か、あるいは家族のだれかが罪を犯し、神さまが罰を与えているのだとされていたのです。そのような人々の視線の中で、彼女はどう生きていったのでしょうか。子どもがいつまでも出来ない状況に対して陰口を叩かれ、夫が亡くなるたびに後ろ指を指される。そして望みもしない形で、次から次へと新しい夫があてがわれる。このサドカイ派の話が事実を基にしたものかどうかはわかりませんが、それにしてもこの女性の状況は、とても悲惨だったといえるのではないでしょうか。

 以前、他の教会で説教をした際も、このような話をしました。「この女性は悲惨すぎる」と。ところが礼拝後、こういうご意見をいただきました。「この女性は悲惨ではない。この婚姻制度は、このような女性を救済するために作られたもので、彼女はこの制度によって生かされているのだから」。言いたいことはわかります。確かにこの、次々と夫を迎えるということは、旧約聖書の中に出てくるきまりです。申命記25章の5節から6節に、このようにあります。

 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

 このきまりは「レビラート婚」と呼ばれ、土地や財産の相続や家系を大切にするイスラエルでは、ごく一般的なものでした。しかしそこには、女性の人権はなく、ただ子どもを産むためだけにたらい回しにされたとも言えるわけです。この話を聞いて、イエス様は何を思い、そしてどう答えられたのでしょうか。

 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。

 これがイエス様の答えでした。もしかすると、神さまは生きている人にとってのみ関わりがあり、死んだ人には関係ないのだと聞こえるかもしれません。でもそうではないのですね。アブラハムやイサクやヤコブがいつまでも神さまと関係があるように、たとえ肉体は滅んだとしても、その魂は永遠に神さまの元で生かされる、それが「復活」ということにつながっていくのだと思います。

 死んだらどうなるの?これはわたしたち人類が抱く永遠の疑問だと思います。キリスト教の限らず様々な宗教では、その教えの中からいわゆる「死後の世界」を考え出してきました。天国と地獄、煉獄、極楽浄土、輪廻転生(りんねてんしょう)、様々な考えを基にして、倫理的な教えを加えていったということも往々にしてあります。たとえば海外のある教会には、柱の左右の壁に絵画が描かれています。どんな絵かと言いますと、片方にいる人たちは天使に引き上げられて神さまのみ許に昇っていく。方や反対側にいる人たちは、地面から悪魔や得体の知れない野獣などがやって来て、地の中に引きずり込まれていく。まさにイエス様が語られた、「終わりの日に羊飼いが羊と山羊を分けるように人々がより分けられる」、そのことをいつも思い起こすようにと、説教を聞くときに一番目に入る場所に、そのような絵画を飾るわけです。今、語っているこの右と左にそのような絵画があったら、どうでしょうか。みなさん、背筋もピリッとして、居眠りなんかもできなくなるかもしれません。語られる教えをちゃんと守らないと大変なことになる、そんな思いも持つかもしれません。

 でもそれをしてしまうと、2000年前、イエス様が来られたころのユダヤの人たちと同じことになってしまうのです。人々をおこないや職業、性別や家柄でより分け、正しい自分たちは神さまの元に行けるけれども、罪人であるあなたがたは無理だよね。その思いから抜けきることができなくなってしまうのです。

 サドカイ派の人たちは、7人の夫に先立たれた女性は、たとえ復活があったとしても誰かに従属すると思っていました。子どもが出来ない、家族に先立たれる、そのような女性は罪人であると考えていたかもしれません。罪人である以上、復活したとしても誰かの支えがないと生きていけないというのが彼らの思いでした。しかしイエス様は教えられます。この女性は、すべてのことから解放されるのだと。この世における悲惨な状況やしがらみ、偏見、差別、あらゆる悲しみから解放されて、神さまによって新たに生かされるのだと。神さまか直接関わってくださる。それこそが、わたしたちが天に召された後に与えられた大きな希望です。約束です。

 わたしたちは、みな多くの罪を犯し、生きています。このままであれば、誰一人として神さまの前に立つことはできないでしょう。しかし神さまはイエス様をわたしたちの元に遣わし、わたしたち一人ひとりの罪の贖いとして、十字架につけられました。

 イエス様の十字架の血によって、わたしたちと神さまとの間の溝は埋められ、罪深いわたしたちをも、神さまは受け入れてくださるのです。そのことを大いに喜びましょう。わたしたちを生かすため、そしてすでに天に召された方々に平安を与えるため、今も働いてくださる神さまのみ手に感謝したいと思います。