2025年3月8日<大斎節第3主日>説教

「垣根を越えて」

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 ヨハネによる福音書4章5~26、39~42節

 聖書の舞台となっている地域は、大変雨の少ない場所でした。今日の旧約聖書に書かれているのは、出エジプト記の中で、イスラエルの民が水を求めて不平を述べた場面です。イスラエルの人たちはエジプトの奴隷状態から解放され、モーセに導かれて、いわゆる「約束の地」を目指していました。ただすんなり行くことができず、結果的に荒れ野で40年間、放浪することになります。水の少ない地域です。雨も少なく、昼間はカンカン照りです。人々は水を求めて叫ぶんですね。「我々に飲み水を与えよ」と。そしてさらに言います。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」。

 水が十分に体内にいきわたらなければ、命にかかわるような状況にもなるのです。つまり、「水」と「命」とはこの時代、この地域では密接に関わっていたということです。

 今日の福音書には、その「水」に関するやり取りが書かれています。イエス様はあるとき、シカルというサマリアの町に行きます。イエス様は一人、旅に疲れて井戸のそばに座っていたそうです。時間は正午ごろでした。サマリアの町です。この時代、ユダヤ人はサマリア人とは交際していませんでした。もともとは同じ民族でしたが、サマリアはかつて北イスラエル王国、そしてユダヤはユダ王国に属していました。その後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされます。その結果、民族的、宗教的に他の民族と混ざり合うことになり、自分たちの血統、血筋をとても大切にするユダヤの人たちは、そのことをとても毛嫌いし、見下していきます。そのサマリアに、イエス様は行かれました。ガリラヤとエルサレムの間にサマリアは位置するので、神殿への行き帰りの途中だったのかもしれません。その井戸のそばに座っているイエス様の元に、サマリアの女性が近づいてきました。

 この女性がこの時間、水を汲みに来たのには理由がありました。普通はこの地域での水汲みというと、朝早く、まだ気温が上がらないうちにおこなうものです。周りには日を隠す樹木もそれほど生えない場所です。時間が経つにつれ、あたりの気温は上がり、外に出るのもつらい、そんな状況になります。でも彼女は、正午ごろに井戸に来たのです。その理由は何でしょうか。考えられることは一つ、彼女は他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかと思うのです。イエス様は会話の中で、彼女に対してこう言います。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と。

 この時代、女性は重婚できませんので、5人の夫がいたということは、死別したか、離縁されたかのどちらかです。死別の場合は、彼女はやもめになってしまいます。女性一人では生きていくのが厳しい時代、やもめになることはとても悲惨なことでした。そのような悲惨な状況になるということは、彼女に大きな責任があったのだと考えるのがこの時代です。大きな責任とは簡単に言うと、罪です。きっととんでもなく悪いことをしたのだろうと人々は思うのです。

 では離縁だとどうでしょうか。今と違い、当時は離縁を申し出ることができるのは、男性だけでした。そしてその一番の理由が、子どもができない、つまり跡継ぎができないからというものでした。子どもを授かることも、神さまから祝福されているしるしだと考えられていた時代です。そして子どもができない原因は、女性にあると思われていました。だからそのような災いの原因である女は離縁してしまえ、悲しいですがこのような事がまかり通っていたのです。

 このサマリアの女性には、5人の夫がいました。つまり5回も、そのような差別の目を向けられ、ひどい言葉を投げかけられ、そして追い出されていった。彼女にはレッテルが貼られていました。「不幸な女性、かわいそうな女性」ではなく、「不幸を呼ぶ女、罪にまみれた女」というレッテルを貼られ、人々からは避けられていたのです。だから彼女は、日が高く暑くてたまらない正午ごろに、水を汲みに行くのです。井戸のそばでは毎朝、文字通り「井戸端会議」がおこなわれていたことでしょう。きっとそこでは、彼女のことも、面白おかしく言い合っていたに違いありません。「わたしたち、ああならなくてよかったね」って。

 このサマリアの女性は、人目を避けて生きてきました。自分の体調を維持する物質的な水は、飲むことはできます。暑い中ではありますが、井戸に行けばその水を汲んで、飲むことはできます。けれども彼女は乾いていたのです。その心は、カラッカラだったのです。そこにいたのは、イエス様でした。イエス様は、肉体的に乾いていました。その肉体の渇きをいやすために、ユダヤ人であるイエス様は、サマリアの女性に声を掛けました。ユダヤ人とサマリア人、男性と女性、そして罪というレッテルを越えて、イエス様は彼女に関わろうとされたのです。

 わたしたちの心は、満ち溢れているでしょうか。普段の生活の中で、のどの渇きを感じることはそんなにないかもしれません。

 でもイエス様は言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と。わたしたちが求める水とは何でしょうか。ただ肉体の渇きをいやすものでしょうか。それとも心を満たしてくれる、命の水でしょうか。イエス様は続けて言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。その言葉に対して、サマリアの女性は言うのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。

 イエス様がどのようにサマリアの女性に水を与えられたか、それは具体的には書かれていません。しかし、彼女は変えられました。イエス様によって彼女は変わったのです。

 今日の福音書の中で、飛ばされて読まれなかった箇所があります。そのうち、28節から30節をお読みします。

 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

 サマリアの女性は人目を避けて、暑い中水を汲んでいました。しかしイエス様から与えられる命の水を知ったとき、彼女は人々にその喜びを伝える者と変えられたのです。

 この大斎節の期間、わたしたちは多くの渇きを覚えます。自分自身に向き合い、自分の弱さを知るときに、心が渇き、神さまの恵みなしには歩めない自分を覚えます。そこにイエス様は、水を与えてくださるのです。サマリアの女性に関わったように全ての垣根を越えて、わたしたちにも手を差し伸べてくださる。そのことを感謝いたしましょう。「わたしにもその水をください」、そう祈りながら日々を過ごしていきたいと思います。