「すがりつく信仰」
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ルカによる福音書18章1~8節a
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。今日の福音書は、このような言葉から始まります。「絶えず祈る」、そのことをわたしたちは、どのように考えていけばよいのでしょうか。
今日は、旧約聖書からみていきたいと思います。今日の旧約聖書は、創世記32章4節から9節と23節から31節になります。ここに登場する人物は、ヤコブです。ヤコブには双子のお兄さん、エサウがいました。弟であるヤコブは父イサクをだまして長子の権利を奪い、長子としての祝福まで自分のものにしました。
当時のユダヤにおいては、長男が家督を受け継ぎ、財産もほとんど長男の物になっていました。だから次男であるヤコブは、それを手に入れたかったのです。そんなことをされて、当然のことながらエサウは怒り狂いました。父が天に召されたときには、弟ヤコブを殺してしまおうと決意しました。そしてそのうわさを聞かされたヤコブは、兄エサウを恐れて逃げたのです。
長い年月が経って、ヤコブは多くの財産や家族を得て、故郷に戻る決心をします。そのときにネックになったのが、兄エサウの存在でした。彼の怒りはずっと続いているのだろうか。贈り物を準備しながらも、ヤコブの不安は尽きなかったことでしょう。
そのときに、ヤコブは祈りました。今日読まれたのは32章の4~9節および23~31節ですが、その飛ばされた部分、10~13節にこのようなヤコブの祈りが書かれています。
ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
その祈りのあと、ヤコブは贈り物や家族を先に行かせ、自分は一人、その場に残ります。そのときに何者かがやって来て、夜明けまでヤコブと格闘したということです。相手が去ろうとしてもヤコブは、祝福を受けるまでは離さないと頑張り、ついには勝ってしまいます。そしてこの勝った相手は神さまだったというのです。この出来事は、ヤコブの祈りだと言われます。夜を徹して神さまと格闘し、ついには祝福を受ける。しつこく、執拗に祈り続ける。このヤコブの姿勢は、イエス様が語った「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」という言葉に通じるものがあります。
イエス様が語ったたとえには、一人のやもめが登場します。やもめというのは、夫を亡くしてしまった人のことです。たとえばその人に息子がいて面倒を見てくれればいいのですが、そうでない場合、その生活はとても苦しいものでした。聖書には、「寄留者には親切にしなさい」とか、「目の見えない人には手を貸しなさい」とか、「やもめは食いものにしてはならない」とか書かれます。これは逆にいうと、彼らの生活が悲惨すぎるから、決まりを作って守らないといけなかったということです。特に子どものいないやもめは、子を得ることができなかった、イコール神さまの罰だと考えられていたので、人にだまされたり、それこそ食いものにされたりということがよくあったようです。
このたとえに出てくるやもめも、きっとそのような目にあったのでしょう。そこで彼女は裁判官に願うのです。「どうか、わたしをひどい目にあわせたその相手を裁いてください。そしてわたしを守ってください」と。しかしその裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない」、そんな人物でした。彼は最初、やもめの言うことを聞こうとはしません。しかしやもめはしつこく、執拗に食い下がります。そしてついにその神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、裁判を開くことを決意します。しかしそれは、正しいことをしようという思いでのことではありませんでした。
「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。
これがこの裁判官が、裁判を開いた理由でした。彼はやもめのことなどどうでもよかったのです。ただ自分に危害を与えられるのが嫌で、やもめの言うことを聞いただけです。イエス様は言われます。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と。
そして続けられます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。
神さまとこの不正な裁判官を比べてみなさい。神さまと不正な裁判官、どちらが正しいことをするだろうか。神さまとこの不正な裁判官を比べてみなさい。神さまと不正な裁判官、どちらが訴えに耳を傾けるだろうか。神さまとこの不正な裁判官を比べてみなさい。神さまと不正な裁判官、どちらがやもめを愛しているだろうか。
神さまはわたしたちを、この一人の女性、やもめのように愛しておられます。神さまはわたしたちの声を聞き、わたしたちの願いに耳を傾け、わたしたちの祈りを待っておられるのです。
祈りとは、一体何なのでしょう。決まった時間に、決まった場所で祈ることも大事でしょう。また祈祷書を用いて、決められた言葉で祈ることもあっていいと思います。しかし今日のヤコブややもめの祈り、しつこく、執拗に、食い下がるように祈っていくことも、神さまは求めておられるのです。
もしかしたらわたしたちの信仰は、スマートになってしまっていることもあるかもしれません。しかし本当に苦しい場面にたったときに、暗闇に落とされたときに、そして祈りの言葉すら見当たらなくなったときに、そのときに心の底からなされる祈り、しつこく、執拗な祈りを神さまは待っておられます。
こんな祈り、していいのかなどと考えなくていい。神さまはすべてをご存じで、わたしたちの叫びを聞かれます。そのことを信じ歩んでいきましょう。正しい裁判官がわたしたちの思いを聞いてくださることを、心から喜びたいと思います。




