2022年7月24日<聖霊降臨後第7主日(特定12)>説教

「熱く、しつこく、厚かましく」

YouTube動画はこちらから

 ルカによる福音書11章1~13節

 キリスト教学校のチャプレンとして遣わされて今年10年になりますが、新しく赴任して来られて、学校でキリスト教と初めて接したという先生たちから、よく言われることがあります。それは、「キリスト教のお祈りってすごい。必ずだれかのために祈りますよね」ということです。そうです。キリスト教の祈りの基本は、他者のために祈るということです。もちろん、自分のことについて祈ったらいけないわけではなく、ガンガン祈っていいわけですが、それでも基本は自分以外のだれかのためです。同じ教室にいるあの子のためであったり、最近元気のない兄弟のためであったり、炎天下外で仕事をしなければならない方々のためだったり、あるいは見たこともない地球の裏側で泣いている見ず知らずの子どものためであったり。けんかや揉めごとがあったら、相手から自分を守ることを願うのでなく、相手に神様の手が差し伸べられるように、イエス様がどうかその人の心の扉をノックし続けてくださるように祈る、それがキリスト者の祈りです。と言いながら、毎朝学校でマイクを通して祈ることが仕事になってしまっている私としては、あんまり深く考えたことがなく、新任の先生からそういう感想を聞いて、かえって驚いてしまったのでした。そうか、そんなにすごいことなのかと。

 でも、だれかのための必死のお祈りは聞かれる。私はこの確信を持っています。それを初めて身をもって経験したのは、私が小学校1年生、妹が4歳の頃のことでした。はっきりとしたことは覚えていませんが、妹が何日も大熱を出し、お医者さんの往診があり、明日まで熱が下がらなければ肺炎と思われますから入院してくださいと両親に話していました。私はそれを聞いて心臓がバクバクして、いてもたってもいられなくなりました。当時暮らしていた教会の小さな牧師館は二部屋と父の書斎しかなく、自分の部屋などありませんでしたから、小さなトイレに駆け込み、声を極力出さずに大泣きしながら神さまに祈りました。

 「神さま、どうか妹を助けてください。このまま死なせないでください。妹は悪いことばかりしますからこのまま死んだら地獄へ行ってしまいます。どうか助けてください。妹も私もこれからいい子になります。この後私にどんなつらいことがあっても我慢しますから妹を助けてください。」

 泣いて泣いて泣いて祈りました。今から40年以上も前のことですが、その時の自分の胸のしぼられるような痛み、目からあふれ出た涙が着ていたTシャツをベチャベチャにしたこと、絶対に神さまは私の気持ちを分かってくださるという確信、それらを本当についこないだ見た映画の一画面のように思い出すことができます。どれくらい経ってからでしょうか。母親の声が響きました。「よかったー。熱引いてきたわ!」神さま、ありがとう!本当にありがとうございます。この後自分に苦しみが降りかかってもよいなどという交換条件はとっくにどこかへ飛んでいましたけれど、これが私の「誰かのために必死で祈る祈りは聞かれる」ということの原体験となりました。

 祈ったけれど、願いは叶えられなかったということも当然あります。それまで授業も持たず、話したこともなかった一人の生徒が、私に一緒に祈ってほしいとチャプレン室にやってきたことがあります。あるコンサートが当たるように祈ってほしいと言うのです。「何それ、私は魔法使いじゃないのよ」と笑いながら、そして心の中でどうやって断ろうと考えながら、話を聞くことにしました。彼女の必死さ、そしてキラキラ輝く目を見ていると、神さまはきっとこの子を通して誰かを幸せにしてくださるという根拠なき確信が湧いてきて、「わかった、祈ろう」と返事をし、チャペルで二人で「神さまの御心ならば」と必死に祈りました。その後、結果を報告に来なかったところを見るとハズレたのでしょう。残念だなー、かわいそうにと思う一方で、あの時二人で祈った時間は私の心の中に一粒の小さな宝石のように大切なものとして残っています。なぜかはわからないけれど、神さまは彼女が願ったもの以上に良いものを彼女に与えてくださったにちがいないと思えるのです。結果は思ったものでなかったけれども、誰かが自分のために一緒に祈ってくれたという経験は彼女の中できっとこれからも残り、何かの時にふと思い出して彼女自身が神さまと出会うことがあるはず、そう信じています。

 主イエスは今日の福音書の中で、弟子たちに「主の祈り」を教えた後、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われます。神さまは、必ずあなたの祈りを聞いてくださると宣言なさるのです。今朝の旧約聖書(創世記18:20-33)では、アブラハムが本当にしつこく神さまに食い下がり、神さまの思いを変えさせたというとても面白い箇所が読まれました。神は悪いことばかりするソドムとゴモラの町を滅ぼしてしまおうと計画されるのですが、アブラハムは、いやそこにも正しい人はいる、50人の正しい人がいたら、いや、45人いたら、いや、40人…30人…20人…10人いたら赦してもらえないかと神さまと交渉します。すると神さまは、アブラハムの人々を思う必死さに心を動かされ、彼の祈りを聞きいれるのです。 

 「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。」このみ言葉は、マタイによる福音書の7章にも記されていますが、今日のルカ福音書にはマタイにはない小さなたとえ話が付け加えられています。真夜中に自分を訪ねてきた友達に食べさせるものがないとしよう。パンを調達するため、もう既に子どもたちと共に寝てしまっている別の友達の家に押しかけ、どんどん戸をたたいたならきっと断られる。けれども諦めずにしつように何度も頼めば、必ずや起きてきて必要なものを与えてくれるだろうというものです。なんて迷惑なと私たちはそれを聞いて思いますが、主は私たちにそんな風に神さまに祈り求めなさいと言われるのです。ここで大切なことは、このしつような祈りが、①自分ではなく、だれかのためであるということ、そして②神さまは「あえて願いえない良いもの」(本日の特祷より)をお与えくださるということです。最後には、「求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。聖霊とは神さまの思いであり、御心です。神さまは、私たちがだれかのために必死で求めたときに、ご自分がいちばん良いと思われるものをお与えくださるのです。それ以上に良いものはありえません。

 祈りましょう、熱く、しつこく、厚かましく。私たちがだれかの為に必死で祈るとき、神さまは心を動かされます。もし、あなた自身のために祈らなければならない時には、だれかに「私のために共に祈ってください」とお願いしてください。聖霊を求めるのです。神さまは、聖霊の働きを通して、私たちが求めまた思うところの一切を、はるかに越えてかなえてくださいます。