2024年6月30日<聖霊降臨後第6主日(特定8)>説教

「起きて、歩きなさい」

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 マルコによる福音書5章22~24、35~43節

 今日、奈良基督教会では「ホームカミングデー」として礼拝をおこなっています。今日、この日にわたしたちに与えられた聖書の箇所は、「ヤイロの娘」と呼ばれるものです。ヤイロという会堂長の娘がいました。その娘が、死に瀕していました。父親のヤイロとしたら、何にでもいいから頼りたい、わらにもすがりたい、そういう気持ちだったと思います。

 彼は、イエス様への元へと向かいます。娘の病状は、一刻を争う状況でした。しかし残念ながらヤイロがイエス様に会って、娘の元に来てくれるように願っている間に、ヤイロの娘は息を引き取ってしまいます。その家の使いの人はヤイロの元に行って、もうイエス様に来てもらう必要はないと告げるのです。しかしイエス様は「ただ信じなさい」とヤイロに告げます。そして娘の元に向かい、イエス様が娘を生き返らせたという物語です。「死者の生き返り」という物語ですが、正直理解するのがとても難しいものです。というのも、わたしたちの周りでは、そのような出来事はまず起こらないからです。

 ではこの物語を、わたしたちはどのように捉えるべきなのでしょうか。今回は、「ヤイロの娘の思い」に目を向けてみたいと思います。自分の力で起き上がることができなくなった、このヤイロの娘とわたしたちを重ね合わせて、今日の福音書に聞いていきたいと思います。

 先ほども言いました通り、ヤイロの娘は12歳です。彼女は会堂長の娘として育ち、また家には使用人もいました。たくさんの人に守られて生きてきました。ところがある日、体に異変が走ります。「起き上がることができない」、そのような状況が彼女を襲うわけです。まったく立ち上がることのできない状況に、彼女は陥ってしまうのです。

 わたしたちも時として、一人で立つことのできない、そのような思いを持つことがあります。肉体的に病気やケガによって起き上がれない、そういうこともあるでしょう。そして精神的に、心がしんどく、辛くなって、目の前が見えなくなる。前に進むことができない、そのようなことだってあるのです。

 今回、ホームカミングデーのお知らせを、多くの方に送りました。転籍をされていたり、幼児洗礼の方だったり、いろんな方がおられました。住所が変わっていて、戻ってきたハガキもありました。教会が久しぶりという方、その理由は様々でしょう。お引越しや転勤などで、物理的に距離ができてしまった人もおられるでしょう。またお仕事やご家庭のことで、日曜日になかなか時間が取れないという人もいると思います。そもそも日曜日に、わざわざ教会に行く理由がわからない。そういう方もいていいと思います。また教会との間に壁を感じてしまい、足が向かなくなってしまった。そんな方だってきっとおられる、そう思います。

 ヤイロは起き上がることのできなくなった娘を見て、何とかしてあげたいと考えました。イエス様のうわさを聞いて、「娘のところに来てやってください」とお願いをしに出掛けました。でももしみなさんがヤイロの娘だったら、どう思ったでしょう。「いや、お父さん。そんな人のところにいかないで、わたしのそばにいてよ」って思ったかもしれません。でもヤイロは娘のために、行動を起こしました。わたしはこのヤイロの行動を見て、わたしたちの祈りととても近いものがあるなと感じます。教会では、礼拝の中でお祈りをします。またご家庭でも、みなさん、様々な時間に祈っておられるでしょう。キリスト教のお祈りは、自分のことだけではない、他者のため、自分とは違う誰かのために祈られます。そしてそのお祈りの幹となるもの、それは、「イエス様、あの人と共にいてください」というものなのです。

 ヤイロがイエス様に、「どうか娘の元に行って、手を置いてやってください」と願ったのと同じ思いが、わたしたちの祈りの中には込められている。そしてわたしたちはいつも、誰かに祈られている。だれかがどこかで、あなたのために祈っている。「イエス様、そばにいてあげてください」と願われている。そのことを心に留めていきたいと思うのです。ヤイロの娘は、父親がイエス様の足元にひれ伏して、しきりに願っていたという事実を知らなかったでしょう。自分のために、会堂長という身分であるにもかかわらず、必死にすがりついていたというそのことを、彼女はまったく気づかなかったと思います。

 ただ聖書の物語は、残酷な方向に向かっていきます。ヤイロの娘が息を引き取ったというのです。その肉体に死がおとずれた。そのことは、ヤイロの家の人たちから希望を奪い取ります。ある者は葬儀の準備に取り掛かり、そしてある者はヤイロの元に向かいます。ヤイロの家全体が悲しみに包まれる中、ヤイロと、そしてイエス様とがやってきます。そしてイエス様は人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われるのです。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」。この言葉の解釈もまた、とても難しいものがあります。わたしたちは洗礼によって、古い自分を脱ぎ捨て、新しい命に生きていきます。神さまに生かされる、新しい命です。イエス様は少女に、その新しい命を与えようとされるのです。

 ただ人々はイエス様をあざ笑います。教会というものも、同じように人々の目から見たら不思議なものです。何を求めて、わたしたちは日曜日に教会に行くのでしょう。どうして時間を割いて、礼拝に参加するのでしょう。

 仲の良い人に会いたいから、役割が当たっているから、習慣化してしまっているから。それもあるかもしれません。しかしみ言葉に聞き、食卓を囲み、そして明日からも歩む力を得る。そのためにわたしたちは、こうして集められ、共に賛美し、祈るのではないでしょうか。

 イエス様は少女の手を取って、言われました。「タリタ・クム」と。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。この言葉はヤイロの娘だけではない、わたしたち一人ひとりにも語られている言葉です。たとえ教会から離れていても、イエス様はわたしたちの元に来てくださるのです。イエス様は周りにいた人たちに、「食べ物を少女に与えなさい」と言われます。起き上がり、再び歩くことができるようになった少女に与えるように言われた食べ物。わたしたちにとって、それは何でしょう。わたしたちはこの礼拝の中で、食卓を囲みます。聖餐の恵みにあずかるのです。また今日は礼拝のあと、BBQをおこないます。ただのイベントではないのです。これからもまた、共に歩むことができる糧として、わたしたちは一緒に食事をするのです。その喜びを、共に感じていきましょう。そしていつも、イエス様がそばにいてくださる、たくさんの方が祈っておられる、そのことを心に留めていきたいと思います。