「幕屋はどこへ」
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マタイによる福音書17章1~9節
今日、大斎節前主日には、印象的な福音書が読まれます。それはイエス様の変容の記事です。高い山に登られたイエス様の姿が三人の弟子の目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったというものです。さらに弟子たちが見ると、モーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたといいます。
このときにペトロはイエス様に言います。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
さてここまで聞いたときに、みなさんはどのような感想を持たれるでしょうか。イエス様は一体何を話していたのだろうか。モーセとエリヤというのは、イスラエルの人たちの中ではいわゆる偉人です。昔々の雲の上の存在、そんなところでしょうか。
そしてペトロが言った「仮小屋を三つ建てましょう」という提案。これにも何か意味がありそうです。今日の箇所はマタイによる福音書17章1節から9節ですが、その直前の16章21節以降、また今日の箇所のあと17章22節以降に、同じようなことが書かれています。それは、受難予告と呼ばれるものです。ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。と弟子たちに告げられたのです。
その言葉を聞いた弟子たち、特にペトロは狼狽し、イエス様をわきにつれていき、いさめます。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。それに対してイエス様はペトロに「サタン、引き下がれ」と言って叱ったのです。
今日の物語は、その出来事があって6日後のことです。ペトロの心の中は、ずっとモヤモヤしていたことでしょう。叱責されたというのもありましたが、イエス様がエルサレムに向かい、苦しみを受けて殺されるということが恐ろしかったのです。
そのときにイエス様と一緒に山に登り、目にした光景は、夢のようなものでした。イエス様の顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなります。そして旧約の偉い人たち、モーセとエリヤと語り合っていたのです。ペトロは思わず、「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と言います。さてこの仮小屋、みなさんはどのようなものをイメージするでしょうか。テントのような折り畳みが可能なものでしょうか。それとも柱だけの簡単なものでしょうか。この「仮小屋」という言葉、実は「幕屋」という言葉と同じ語が使われています。幕屋と言えば旧約聖書の中で、神さまを賛美するために建てられたものです。ですから簡易的な物ではありません。それよりもしっかりした、小ぶりではあってもちゃんとした礼拝堂というイメージなのかなと思います。だとすると、ペトロの提案が少し違った意味に聞こえてくるのです。テントのイメージであれば、イエス様とモーセとエリヤがゆっくりくつろげるように、少しの間、雨風を防ぎましょう、という感じでしょう。しかし幕屋であれば、そのままそこに居続けてもらう、そういう意図が垣間見えるのです。
ペトロはこの出来事が起きる6日前に、イエス様から驚きの言葉を聞きました。イエス様がエルサレムに行き、そして殺される。その言葉はペトロを、絶望へと追いやったのではないでしょうか。ペトロはそれを止めたかった。イエス様が死に引き渡されるのを、良しと思わなかった。でもそこには、神さまの思いがあったのです。イエス様がわたしたち人間の罪のために死に、わたしたちに代わって血を流す。そのことによって、神さまと人間とを元の正しい関係に戻したい。そのためにイエス様のエルサレムへの道、十字架が用意されたのです。
なぜイエス様が十字架に、というその思いはペトロだけではない。わたしたちの心の中にもあると思います。わたしたちはそんな、十字架につけられるほどのことはしていない。少しは悪いことをしているかもしれないが、それはほんの些細なことだ。
その思いの中で、山の上にいるイエス様に、「もう、そのままそこにいてください。あなたは十字架へと向かう必要がない」と言えるほど、わたしたちは清い者なのでしょうか。立派なおこないをし、正義に立つ一人ひとりなのでしょうか。
わたしは、そうではないと思います。わたしたちの心の中には、人には隠しておきたい思いがあり、わたしたちの口は絶えず人を傷つけます。そしてわたしたちは神さまの目に適ったことではなく、自分にとって良いことをおこなってしまうのです。
毎週の礼拝の中で懺悔をしても、いつしか当たり前のように毎日を過ごしてしまう。でもその毎日を、この大斎節の期間、振り返ってみたいのです。イエス様の十字架の道をたどる中で、なぜ神さまはそれほどまでにこんな自分を愛してくださっているのか、そのことに目を向けていきたいと思うのです。ペトロの「仮小屋を建てましょう」という申し出に対して、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という言葉が聞こえました。そしてイエス様は何も言われず、山を下りられました。山を下りたイエス様は、傷ついた人、孤独な人、自分の力で起き上がることすらできない人と共に歩み、そしてエルサレムへと進んで行かれます。そして十字架へと向かわれますが、そこで終わるわけではありません。その先には復活の喜びが待っているのです。
今日、堅信受領者総会がおこなわれます。教会の働きは神さまのみ心に沿ったものだろうか。わたしたちはイエス様が山を下りられたように、人々の間で生かされているのだろうか。考えるときだと思います。
総会の中では、会計の報告もいたします。しかし信徒さんの中には、そのようなものはあまり聞きたくないという声があるのも事実です。しかし今回、わたしはあえて献金の話をしたいと思います。そもそも献金とは何なのか。献金とは、わたしたちが神さまからいただいた恵みや賜物への感謝を、具体的に示すものです。つまりいただいたものの内から、お返しするということです。献金は、教会に属するわたしたちの感謝の、大切な目にみえるしるしです。だからわたしたちは、それぞれが神さまからいただいた分に応じて、喜んでおささげしたいと思うのです。
教会では、お金の話は敬遠されがちです。しかしわたしたちの教会の働きは、やはりお金によって支えられているのも大きな事実なのです。わたしたちが単に、自分の好きなことをしているのであれば、こんな話は必要ないのでしょう。しかしイエス様から山から下り、地上に建てられた幕屋の働きを、わたしたちが与えられた地で担っているのであれば、その働きをみんなで支えていくこと、これって素晴らしい喜びだと思うのです。
これから始まる大斎節の期間が、わたしたちにとって霊と肉とが整えられる、豊かな時となりますように、祈ります。




