2020年3月29日〈大斎節第5主日〉説教

マルタの信仰告白
 ヨハネ11:17-27

 奈良基督教会にて
  司祭 ヨハネ 井田 泉

 このところ主日の福音書は、ヨハネによる福音書の長い物語が連続しています。教師ニコデモの話、サマリアの女の話、生まれつき目が見えなかった人がイエスによって癒された話、そして今日はベタニアのマルタ、マリア、ラザロの3人きょうだいの話です。
 それぞれが独立した話ではありますが、これらの出来事を経て、イエスは次第に「その時」に向かって近づいていかれます。その時とは、別れの時、十字架の時です。
 今日の物語の舞台はエルサレムにほど近いベタニアの村。まもなくこのベタニアからエルサレムに入って、イエスは捕らえられて死なれることになるのです。

 さてこのベタニアに、イエスにとってとても大切な3人きょうだいが暮らしていました。マルタ、マリア、ラザロです。今日は読むのを省きましたが、第11章5節にこう記されています。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」

 イエスはどの人もだれをも愛しておられます。けれども、ここにこう記されているのには、特別な意味があります。それは、このマルタ、マリア、ラザロがイエスを守り支える人たちであった、ということです。イエスにとってエルサレムは危険な場所です。イエスを捕らえて殺そうとする人々が待ち構えているからです。 
 そのエルサレムの入り口に当たるベタニアの村で、イエスを物心両面にわたって応援し、宿る場所のほかあらゆる必要なものを提供していたのが、このマルタ、マリア、ラザロでした。3人は当然、力ある人たちからはにらまれている存在です。何の社会的地位も持たないこの人たち。けれども、自分を危険にさらしてまでイエスを信じ、イエスを愛し、イエスを応援してきたこの3人を、イエスをどんなに大切に思っておられたことでしょうか。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

 そのラザロが重い病で危篤だという知らせが、イエスのもとに届きました。イエスはラザロが死ぬ、とはっきり感じられました。悲しみと嘆きがイエスの胸を突きます。
 イエスは沈黙しておられました。1日、2日、3日。どうすべきかを、祈りつつ考えておられたに違いありません。

「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」ヨハネ11:11

 眠っているとイエスは言われました。それはラザロはすでに死んだ、という意味です。けれどもイエスのうちにはっきりした決意が起こっています。このラザロを自分は引き受ける。このラザロを必ず生かす。ラザロが死ぬなら自分も一緒に死ぬ。しかしわたしが生きるので、ラザロも必ずわたしと一緒に生きる。けっしてラザロを死と滅びの中に放置しない。
 弟子たちは心配しました。ベタニアに行くのは危険だ。イエスの身を弟子たちは案じるのです。しかしイエスは、それは承知でした。イエスが思われたのは、自分の身のことよりも、ベタニアのラザロのこと、そしてマルタ、マリアのことです。自分がそこにいくことによって、マルタ、マリアまで危険にさらすのではないか。イエスを憎む者たちは、この3人のことも憎んでいるからです。
 すべてを考えた上で、イエスは立ち上がって出かけられました。ラザロを生かすため、また悲しみの底にあるマルタ、マリアを生かすためです。

 ベタニアの村の入り口まで迎えに来ていたマルタに、イエスは出会われました。マルタはイエスに言いました。

「『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』……イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」11:21-27

 イエスはすでにラザロを復活させる決意をしておられ、それをマルタに明確に言われたのです。けれどもマルタにはその意味がはっきり理解できなかったかもしれません。それでもマルタの精一杯の、溢れる真実がこの言葉に込められています。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」11:27
「わたしは信じております。」

 「わたしは」が、ギリシア語原文ではとても強調された表現になっています。他の人がどうであれ、わたしは、わたしは信じております。
 「信じております」 こう訳されたこの言葉にもマルタの思いが込められています。わたしはイエスさま、もうあなたを信じてしまった。もう以前に、あるときからあなたを信じてしまいました。休む場所も食事も、何もかもあなたに提供しよう、場合によっては自分の命も差し出そうと、もう決意しました。今もそうです。これからもずっとそうです。
 まだマルタは、イエスがラザロを復活させることを理解していません。けれどもそれでよいのです。イエスがおられるのですから。

「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 このマルタの信仰告白がわたしたちの信仰告白になりますように。

 「わたしは」です。だれかの顔色を見たり気にしたりするのではありません。わたしは信じるのです。
 わたしたちもイエスさまを信じて、その働きに協力します。
 そしてわたしだけのためではなく、この世界、その世のために、イエスを信じます。
 マルタは「あなたは世に来られるはずの神の子、メシアである」と言いました。
 自分の平安だけではない。この世の救いのために来られた方を信じて、この世界が、あらゆる人々が救われるためにイエスを信じイエスに協力する。これがわたしたちです。

 思い出しましょう。初めのほうで何と言われていたでしょうか。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」

 わたしたちは、皆さんは、マルタです。マリアです。ラザロです。そのだれかです。イエスに愛されている者です。
 イエスの愛がわたしたちを動かします。そしてわたしたちの中にイエスを思う思い、イエスを求める求め、イエスを愛する愛が起こされます。
 やがてわたしたちはマルタとともに、これまでよりももっと、イエスの力ある働きを経験することになるでしょう。

 祈ります。
 主イエスさま、マルタが信じたように、わたしたちもまた真心をこめてあなたを信じ、あなたを愛するようにしてください。あなたの働きにわたしたちを加えてください。そして、やがてラザロを復活させられるあなたの業をマルタが経験したように、あなたの力ある愛のわざをわたしたちもはっきりと経験することができますように。あなたの尊いみ名を賛美します。アーメン