2023年7月9日<聖霊降臨後第6主日(特定9)>説教

「み心に適うこと」

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 マタイによる福音書11章25~30節

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。多くのキリスト教会の看板に、この言葉が掲げられています。しかしこの言葉から感じるものは、「無料休憩所」のような雰囲気です。教会にはそのような一面も、確かにあるでしょう。駆け込み寺のように、いつ誰が行っても休むことができる場所。マラソンの給水ポイントのようなもの。また門がいつも開いていて、誰もが自由に入ることができる場所。

 しかし実際のところ、当教会を含め、多くの教会は平日門を閉めております。幼稚園が併設されていたり、牧師が他の仕事をしなければならなかったり、そもそも教会に牧師がいなかったり、それが現実です。掲示板の「わたしのもとに来なさい」の記述だけに目を向けると、今日のこの言葉は、教会と道行く一般の方々との関係だけに特化したものとなります。しかし聖書の文脈の中で読むと、また違った捉え方ができるようにも思えます。

 先週の説教の中で、マタイ10章でイエス様は12人を弟子とし、「宣教の心構え」を伝えられたのだ、と語りました。そして今日読まれた11章25節に、このように書かれています。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』」。この言葉の背景には、何があるのでしょうか。一つの可能性として考えられるのは、このようなことです。すなわち、11章1節で弟子たちと別れて行動したイエス様。先週、このときのイエス様は「初めてのおつかい」に子どもを送り出す親と同じような気持ちではなかったのかとお話ししました。

 12章から普通にまた弟子たちと一緒に行動していることから、イエス様が今日の箇所で語られている言葉は、それぞれ遣わされた場所から戻ってきた弟子たちを見て、話されたと思われます。つまりイエス様は、弟子たちがそれぞれ遣わされた場所から帰って来た様子を見て、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と喜ばれたのではないかということです。要は「初めてのおつかい」で無事に帰ってきた我が子を抱きしめ、喜ぶ。そのような光景が、このイエス様の言葉の中にあらわされているのです。

 少しだけ、そのときの弟子たちの様子を想像してみましょう。イエス様がこれほど喜んだのですから、弟子たちの宣教は見事に成功したのでしょうか。すべての人が「天の国は近づいた」と告げられるその言葉を受け入れ、弟子たちを招き入れ、「冷たい水一杯」どころか食事さえも与えたというのでしょうか。きっと、そうではなかったと思います。12人の弟子たちは近くの町や村に宣教に出掛けたでしょう。一人で行った弟子もいれば、二人組という場合もあったかもしれません。でも出会う人すべてが皆、自分たちの話を受け入れたかというとそうではなかったでしょう。それどころか、石を投げられたり、家の中に入れてもらえなかったり、議論を吹っ掛けられたり、様々な苦労があったと思います。「冷たい水一杯」でさえ、くれた人は、ほんの一握りだったに違いありません。

 でも、想像ですが、12人の弟子たちの顔は、生き生きと輝いていたのだと思います。がっかりすること、悲しいこと、つらいことは確かに多くあったでしょう。しかしそれ以上に、大きな喜びが彼らの前にあったからです。何が彼らの喜びだったのか。それが今日の一番のポイントです。彼らが喜んだのは、自分が受け入れられたからでも、自分の言葉が響いたからでもありません。神さまのことが伝わったからです。神さまの愛が自分の前の人に注がれるのを目の当たりにしたからです。

 それでは、わたしたちの考える宣教はどうなのでしょうか。わたしたちは問われているように思います。神さまではない他のものを伝えていたとしたら、それは宣教とは呼べないのです。いくら礼拝堂が素晴らしかったとしても、パイプオルガンの響きが美しかったとしても、そこに神さまの福音がなければ、それは宣教ではありえないのです。そしてもう一つ、宣教は喜びです。わたしたちの喜びであり、イエス様の喜びでもあります。自分の手柄ではなく、神さまの栄光が自分を通して示され、目の前の人が喜びに満たされる。それが喜びではなくて何なのでしょうか。

 来週、教会では洗礼堅信式がおこなわれます。先週、志願をされている方の紹介をさせていただきました。これまでわたしは、多くの方の洗礼、堅信に関わってきました。またそれ以外にも、教会に連なっている人、教会に戻ってきた人、いろんな人を見てきました。そのことを思い返す中で心に浮かぶのは、すべての場面において神さまが働かれているということです。イエス様は「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言いました。もし自分を知恵ある者や賢い者だとうぬぼれ、自分の力で人を導いていると思っているなら、それは大きな間違いなのです。幼子のような者だからこそ、神さまの業がその人を通しておこなわれる。そのことをわたしたちはいつも意識しておきたいと思います。

 そして最後にイエス様は、こう言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。ただしこれはすべての休息を約束する言葉ではありません。休息よりも、これからあなたはどう歩んでいくのか、ということを伝えています。「わたしの軛を負い」という言葉があります。軛とは、馬や牛といった家畜が農作業や運搬などの労働をする際に、首につける木でできた器具です。二頭の動物がそれによってつながれるのですが、この軛が首にフィットしていないと、痛くて力が出せないそうです。逆にピッタリと合っていると、ストレスなく動くことができるそうです。イエス様が言う「わたしの軛」、それはきっと、わたしたち一人一人のためのオーダーメイドなのでしょう。わたしたちがすべてを委ねて歩けるように作られた、そのようなものです。その軛によって、わたしたちは安らぎを得るのです。

 そして軛は、あなたともう一人を結び付けています。あなたの隣であなたと一緒に軛を負っている人、その人こそイエス様です。イエス様はあなたの隣で、あなたの歩幅に合わせて歩み、あなたの荷も引き受け、そしてあなたをよき方向へと導いてくださる。その歩みの中で、イエス様を伝えること。自分の知識や功績ではなく、いつも共にいて支えてくださる方がいるということを、その日々の行動の中で伝えることが宣教です。難しいことはありません。イエス様によって生かされている自分を知り、そのことを感謝し、喜ぶ。それだけでいいのです。弱く、小さな一人一人だからこそできることです。自分に何の力もないことを知っているからこそ、できることなのです。イエス様と共に歩む中で人と出会い、神さまの愛に包まれていく。その本当の宣教を、わたしたちは目指していくべきなのではないでしょうか。