2020年5月24日<復活節第7主日(昇天後主日)>説教

「違いを認めて一つになろう」

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ヨハネによる福音書17章1~11節

 司祭 エレナ古本みさ

 コロナ感染がだいぶ落ち着いてきました。まだ完全に安心はできませんが、わたしたちの奈良基督教会も3密を最大限に避ける工夫をしながら、なんとか来週聖霊降臨日から再開いたします。これから少しずつ皆様と顔を合わせてお会いできることを、牧師ともども心より楽しみにしております。

 さて、この非常に長く感じられたステイホームの期間、わたしは本当に久しぶりに時間がゆっくりと流れるのを感じることができました。いちばん良かったのは、二人の子どもたちとたくさん話し、笑って泣いて抱き合って、真正面から向き合うことができたことです。その中で、一つの大きなニュースは、11歳の長男が自転車に乗れるようになったことです。今までも何度か挑戦したことがあったのですが、怖さが勝ってしまい、挫折していました。でも、今回みんな時間が取れたのと、幸い敷地内に自転車を練習できる場所が与えられて、毎日少しずつ、家族総動員の応援団による「大丈夫!約束する。君は絶対できる!」という魔法の言葉を浴びせられながらがんばったわけです。自転車というのは不思議なものですね。乗れる人はなかなか乗れない人の気持ちが分からないのです。なぜ乗れないの? なんでそんなフラフラするの? なぜこけるの? みんな乗れなかった時期があったのにもう忘れてしまっています。こんなに不安定なのは、何が原因なんだろう? 彼の恐怖心はどこから来るんだろう?

 そんなことを思っていると、ふと気づきました。わたしたちの人生って、なかなか気づかないけど、誰しもこんな状態なんじゃないだろうか。特に今、目に見えないコロナ騒ぎの渦中にあってそう思いますし、コロナが解決したとしてもわたしたちの人生はずっと不安定です。幸せ、順風満帆と思っていても突然襲い掛かる苦難、病気、裏切り、戦争、愛する人との別れ... あげるとキリがありません。順調にペダルをこいでいても突然、突風が吹いたり、車がぶつかってきたりするわけです。自分を過信しては倒れ、しなくても倒れ、時に迷子になり、どこへ向かっているのかさえもわからなくなる。思えば、これがわたしたち、人間です。とにかく、とにかく不安定なのです。

 先週木曜日、教会は昇天日を迎えました。主イエスが復活されてその後40日間を弟子たちと共に過ごし、天に昇られたという日です。40日間のそれは喜びにあふれた夢のような、永遠に続くかのような幸せな日々を送った後、この日、弟子たちは、どんな気持ちでイエスを天へ見送ったのでしょうか。イエスによって約束された、聖霊が彼らに降るまでの10日間は、どんなに心細く、不安定なものだったでしょうか。ともすれば、ため息が漏れ、あるいは涙が溢れてくるような日々だったかもしれません。

 どうしてそんなに不安定なのかというと、もう彼らには与えられた約束を信じるしかなかったからです。約束って、とっても前向きで響きの良い言葉なんですけれども、同時にそこにはものすごく大きな不安がついてきます。「約束するよ」、そう言われた方はそれを信じるしかないのです。本当か嘘か分からない、でも信じるしかない。信じる以外に道はない。それが当時の弟子たちの気持ちであり、それは同時に今を生きるわたしたちクリスチャンの生き方でもあります。

 イエスが天に昇られる時、弟子たちに与えられた約束は二つありました。一つは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」というイエスの言葉、そしてもう一つは、「イエスは今あなたがたが見たのと同じような姿でまたおいでになります」という天使の言葉です。聖霊が降る、そして主は再び来られる。この二つの約束をただ信じ歩んでいく。それが、イエスの弟子の生きる道です。

 弱いわたしたちにどうしてそのようなことが出来るのでしょうか。答えは今日の福音書の中にあります。ユダに裏切られ、逮捕され、十字架につけられる直前、イエスは愛する弟子たちにたくさんご自分の思いを語り、その後、弟子たちのために神に祈られました。今日の箇所はその祈りの最初の三分の一程度のものですが、そこに込められたイエスの願いは、「父よ、彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」「彼らを一つにしてください」というものでした。

 この世界を造られた神様とみ子イエス様が一つであるように、神を信じるわたしたちが一つになることによって、わたしたちは約束を信じ、ふらふらせず、真っすぐに歩いていくことができるのです。ただ、わたしたちが注意しなければならないのは、一つになるとはどういうことかということです。みんなが一つの考え方に合わせた集団行動をとることなのでしょうか? 何が何でも曲げてはならない伝統や習慣というものにしがみつき、それに合わせられない人はどうぞお引き取りくださいということなのでしょうか? まわりの空気を読んで、自分の思いよりも和を大切に生きろということなのでしょうか? 違うと思います。聖書全体からそんな言葉はまったく聞こえてきません。そのように一つになろうとすることで、これまでどれほど分裂が繰り返され、かえってバラバラになってきたかということは、歴史を見れば明らかです。

 神様とイエス様が一つであるように、わたしたちが一つになるということ、それは、互いに愛し合うということ以外にありません。愛するとは、その人をそのまま受け入れること、自分とは違うその人を認め、大切に思うことです。一見矛盾しているようですが、わたしたちは、違いを認め、異質なものを排除せずに共に生きることでしか一つになれないのです。何と言っても、神さまがわたしたちをみんな違うように造り、それを極めて良いとおっしゃったのですから。自分だけが正しいと思わないこと、自分だけが正義だと考えないこと、この星に生きるすべての人が神様に愛されて生まれてきた、その事実をいつも心に留めていること。愛のきずなによってのみ、わたしたちは一つになれるのです。

 このように多様性を尊重しながら一つになることを経験することができたなら、イエス様が目に見えなくても、神さまの声が耳に聞こえなくても、聖霊を手で触れることができなくても大丈夫なのです。人と人とのつながりの中に生まれる神の愛によって、わたしたちはペダルをこぎ続け、しっかりとハンドルを握って、主イエスの約束を信じてまっすぐ歩んでいくことができるのです。そしてもちろん、たまにこけたって、また起き上がることができるのです。

 来週の日曜日、教会の門が再び開きます。くしくも聖霊降臨日、教会の誕生日と言われる日です。お互いの違いを認め合うことで一つになれる新しい、開かれた教会を目指しましょう。そして、そこで完結ではなく、またそこから世に出ていき、家庭で、職場で、学校で、地域で、主と共に小さな神の国をたくさん作っていきましょう。