2020年8月23日<聖霊降臨後第12主日>説教

「あなたはわたしを何者だというのか」

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マタイによる福音書16章13~20節

 先々週の日曜日から、わたしたち奈良基督教会ではコロナ感染の全国的なさらなる拡大を受けて、再び聖餐式に代えてみ言葉の礼拝を行うこととなりました。神様からいただいた一人ひとりの大切な命を守るため、できる限りのことをしようと教会委員会で決められたことではありますけれども、毎週聖餐に与ることが現在当たり前となっている聖公会の教会として、正直これはとても寂しいことです。星のない夜空のような、なんとかのないコーヒーのような...そんな思いがします。せっかく大切な人に会いに来たのに、来てみたらその方はあいにくお留守だったという感覚をもたれる方もおられるかもしれません。でも、そうじゃない、いまここに主イエスはおられます。マタイによる福音書18章20節にはこうあります。「二人または三人がその名によって集まる所には、わたしもその中にいる。」主は、今ここにおられるのです。

 コロナによって、わたしたちは多くのものを我慢し、失い、断念してきましたが、その反面、わたしたちは常日頃見えていなかった大切なものを見出しています。自分と人に優しくなる気持ち、平和、いのち、人と繋がるということ、生きるということ、愛するということを。そしてだれかと共に祈るとき、主イエスがそこにおられるということを。薄い雲に覆われた星一つない夜空を、じっと目を凝らし見つめていると、雲がかすかに動いているのが分かり、その合間からひとつ、またひとつと輝きを見出すことがあります。いつも入れるミルクを切らし、苦手だと思っていたブラックコーヒー仕方なくすすってみたら、思いもよらず、豆の豊潤な香りが口の中全体に広がり、自分が毎朝コーヒーを飲む意味が初めてわかったということがあります。そのように、わたしたちには悪いこととしか思えない状況の中に、あるいはその状況であるからこそ、生きる上で本当に大切なもの、エッセンスを見出すことができるのです。

 もちろん、大勢の方が命を失い、今もなお苦しんでおられます。そして愛する人を突然この病魔によって奪われた方々の悲しみ、痛みは経験していない者にとって計り知れないものがあります。コロナがあったから良かったなんてことは決して軽々しく言うことはできません。けれども、主イエスの十字架と復活の本当の意味が心に沁みわたるとき、そして、「神はどんな悪もなくすよりも、悪からも善が生まれることを選ばれた」という聖アウグスティヌスの言葉が、イエスに出会うことによって自分の中で現実のものとなるとき、このウイルスさえも神からの恵みであると信じることができるのではないでしょうか。

 聖餐式のない礼拝を続けなければならず、教会に行くことさえ簡単でない今こそ、本当に主に出会うということがどういうことであるか、わたしたちクリスチャンは本当に何を信じているのか、教会とは実際、何であるかという本質的なところをご一緒に考えていけたらと思うのです。

 今から二千年ほど前のイスラエルの地で、主イエスは、人びとに神の国、天の国とはどういうものかを、たとえ話を用いて話し、さまざまな奇跡を行い、この世の苦しみの中にある人々に神の愛を示されました。当時の人々は、イエスをスーパーマンのように思ったことでしょう。イエスはある時、弟子たちを集めて尋ねました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」弟子たちは、正直に答えます。「『洗礼者ヨハネだ』という人もいれば、『エリヤだ』という人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』という人もいます」と。それはすなわち、イエスは生き返った偉大な預言者の一人であるということでした。

 続いてイエスは弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」みんな一瞬黙って互いの顔を見合わせたことでしょう。「これホントに言っていいのかな。本当にそうだと言い切れるのかな。そう信じたいけど。」みんなが心の中で呟いているときに、ペトロが「ハイ」と勢いよく手を挙げて言ったのです。「あなたはメシア、生ける神の子です!」心底そう信じていますと言わんばかりに、張り切って答えたのでした。メシアとは、ヘブライ語で「救い主」を意味し、ギリシャ語では「キリスト」となります。

 では、わたしたちはどうでしょうか? キリスト教をまったく知らない友人に、「イエス・キリストって何者」と聞かれたら、「イエスはわたしの救い主、わたしたちと今共に生きておられる神だ」とあなたは即答できますか? なかなか難しいと思われる方が多いのでないでしょうか。「キリスト教では、イエス・キリストを唯一の神だと信じている」、とか「教会では、牧師先生が救い主だと言っていた」とか、「イエス・キリストっていうのは、実は名前と苗字ではなくて、イエスは救い主という意味である」とうんちくを垂れてみたり、「聖書には、イエスは神の子と書かれている」なんて、他人事のように言ってしまったりするかもしれません。「いや、そうではなくて、あなた自身はどう思うの?」と鼻先に指を指されて聞かれたらどうでしょう。「うん、まぁ一応、洗礼受けてるし...」みたいに言葉を濁してしまったりしないでしょうか。

 今若者言葉で、ちょっと人並み外れた能力を持つ人や普通にはなかなかできない素晴らしい対応をする人のことを「あの人神だよね」とか「神ってる」「神対応」という表現がよく使われるんですよね。神という概念がわたしたちに近くなったのでしょうか。なんだかよく分かりませんけれども、面白いなぁと思います。その流れで行くと、「イエスってマジ神だよね」といとも簡単に言えてしまうかもしれません。でも、「あの人神だよね」という場合、それは「単に自分と同じ人間とは思えないすごい人」という意味であって、自分とはあまりかかわりのない遠い存在である場合が多いように思います。

 けれども、ペトロがここで答えた「メシア」すなわち「救い主」は、「わたし」に係わる言葉なのです。イエスは、「わたしを」救ってくださるお方である、という信仰告白なのです。イエスは、そのペトロの答えを聞き、喜んで言われました。「あなたの上にわたしの教会を建てよう」と。教会とは何でしょうか。教会とは、人の集まりです。「主イエスは罪にまみれたわたしを闇から救い、希望の光を与え、罪と死の恐れから解放し、もう一度立ち上がって新しく生きる力を与えてくださる方である」と信じる人たちの共同体です。決して仲良しクラブでもなければ、何か偉業を成し遂げるための社会団体でもありません。ただただ、主イエスを救い主と信じる人たちが集まって、神を賛美し、生かされていることへの感謝を捧げ、キリストの平和を分かち合う場なのです。でも、決してそこで自己満足に終わるのではありません。神の愛のつまった大きなお土産袋を持ち帰り、教会の外で愛を必要としている人たちとそれを分かち合い、また次の日曜日にからっぽになった袋を持って集まるのです。時に初めての人の手を引いて。教会はそういうところなのです。

 教会に人が集まらない。そのように言われて何十年になるのでしょう。その理由は、実は、教会にあるのではなく、その中のわたしたち一人ひとりが信仰を心から告白し切れていない、信じる喜びに満たされていない、あの時救われた喜びの炎が燃やされ続けていないというところにあるのかもしれない、そのように思います。教会が聖餐を受けてその場限りの満足を得る場所となっていないでしょうか。

 主イエスは今日もあなたに問いかけておられます。「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」聖餐に与ることのできない今こそ、主イエスに出会ったあの日の喜びを思い起こしましょう。主イエスへの信仰を心から告白し、それを人に伝え、神の愛を生きましょう。そこに天の国の鍵があるのです。イエスを救い主と信じるとどのような生き方が待っているのか、そのわかちあいができるときを、また皆で主の食卓に与れる日とともに待ち望みたいと思います。