「夫ヨセフ」
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マタイによる福音書1章18~25節
2000年前、ベツレヘムの小さな家畜小屋で起こった出来事は、今も多くの人が語り継ぎ、そして多くの場所で祝われていることです。クリスマスは今や、この日本において、宗教行事ではなくなってしまっているようにも思えます。それはある意味うれしいことでもあり、逆にちゃんとしたことを伝えきれていないもどかしさも感じます。クリスマスって何の日?幼稚園の子どもたちにそう尋ねると、小さいクラスの子たちは「サンタさんの日」、でも年長さんになると「イエス様の誕生日」という答えが返ってきます。ページェントの練習が始まると、ほとんどの子がそう言ってくれるようになります。
ただその誕生物語も、実際はどうだったのでしょうか。今日の福音書にはヨセフが出てきます。ヨセフはイエス様の母マリアと結婚の約束をしていた男性です。しかし正直、影が薄いんですね。この前幼稚園でおこなわれたページェント、聖劇の中にヨセフは出てきますが、登場するのはマリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたあとです。人口調査のために故郷に戻るところからようやくヨセフがでてくるのです。そして最初に言うセリフが、「トントントン、こんばんは。今晩とめてくださいませんか」です。でもヨセフには深い苦悩があったはずなのです。今日はそのことを中心に、神さまの思いを分かち合っていければと思います。
今日の福音書は、このような言葉から始まっています。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
非常に簡単に書かれていますが、この言葉をわたしたちはどう捉えればいいのでしょうか。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。婚約、これはわかります。結婚の約束をすることです。ただこの時代のユダヤでは、婚約しても一年ほどは一緒に住むことはできませんでした。ですから普通に考えて、マリアが身ごもることはありえませんでした。
でも続いてこうも書かれているのです。「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と。聖霊によって身ごもる。そのことが果たして理解できるでしょうか。ルカ福音書や多くの降誕劇の中では、マリアが天使ガブリエルから何を言われ、それをマリアがどのようにして受け入れたかが伝えられます。
マリアは自分の身に起こったことを、受け入れました。ではヨセフはどうでしょうか。今日の箇所には、マリアがどのような説明をしたかなど、何も書かれていません。あるのは「身ごもった」というまぎれもない事実だけです。ヨセフにとってこのことは、何を意味していたのでしょうか。「夫ヨセフは正しい人であったので」と聖書には書かれています。「正しい人」という言葉、ヨセフは一体何に対して正しかったのでしょうか。それは律法です。旧約の戒めです。それをきちんと守っていた。だからヨセフは「正しい人」でした。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ではどうしてヨセフは、正しい人であるが故に、マリアとひそかに縁を切ろうと決心したのでしょうか。理由として考えられるのは3つのことです。
一つは、マリアのためです。当時婚約者であったとしても、ヨセフはすでに夫とみなされていました。しかしヨセフがいるにもかかわらず、他の人の子を身ごもってしまったら、それは姦淫という罪になります。マリアは石打ちの刑になってもおかしくないのです。二つ目は、世間の目が怖かったからでしょう。彼らが婚約していたことを、みんな知っていました。しかしマリアが結婚前にお腹が大きくなっていたとしたら、どう思われるだろうか。そこでヨセフはマリアを遠くにやろうと思ったのです。そして三つめは、自分のためです。もしかするとヨセフは、マリアの言葉を信じることができなかったのかもしれない。聖霊というのは真っ赤なウソで、自分はだまされているのかもしれない。そう思った時に、もうマリアの顔など見たくないと思ったのかもしれません。どれか一つの理由かもしれませんし、いろんな理由が重なっているかもしれません。ただ一つ言えることは、この時点でヨセフの心には「神さまの思い」が届いていなかった。彼は自分の正しさに固執するがあまり、神さまのご計画に目を向けることができなかったのです。
ただ、神さまの大きな計画の中で、ヨセフは必要な人物でした。マタイによる福音書はとても長いイエス様の系図から始まりますが、その最後にはこのように書かれています。「エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。イスラエルの偉大な王ダビデの末裔というわりには、ヨセフはそれほど裕福ではなかったようです。それどころか貧しい暮らしを強いられていた。ローマの圧政に苦しめられ、生きるのにも精いっぱいの状況。それでも彼は、正しい者でいようとしました。でもその彼の正しさは、神さまのみ心とは違う方向を向いていたのです。先週罪とは、「的外れ」ということだという話をしました。自分がこうだと思う正しさはマリアとひそかに縁を切ること、しかし神さまのみ心は妻マリアを迎え入れることだったのです。主の天使はヨセフにマリアを受け入れるように、そしてその子の名をイエスと名付けるようにと告げます。そのとき初めて、ヨセフは自分の思いが神さまのみ心とは違っていたこと、そしてそれでも自分を用いようとする神さまの思いを知るのです。ヨセフはマリアを受け入れました。これは彼の大きな信仰だと言えるでしょう。彼はこのとき神さまにすべてを委ね、自分の思う正しさではなく神さまの導きに従って歩むことを決めたのです。
わたしたちは今日、降臨節第4主日の礼拝をおこなっています。あと三日後には、クリスマスイブ。そして25日には降誕日を迎えます。わたしたちもヨセフのように、神さまのなさる不思議なみ業に自分自身を委ね、歩むことができればと思います。
イエス様は、インマヌエルという呼び名も持ちます。その意味は、「神は我々と共におられる」ということです。たとえわたしたちが今、信仰を持つことが出来なかったとしても、神さまは何度でもわたしたちにイエス様を遣わしてくださいます。
わたしたちが本当のクリスマスを迎えるまで、神さまはずっとわたしたちに関わり続けられる。それがイエス様の誕生を通して、神さまがわたしたちに伝えられたメッセージです。その言葉を胸に、クリスマスを迎えましょう。




