「神さまのやさしい羽」
YouTube動画はこちらから
ルカによる福音書13章31~35節
今日のお祈りの中に、こんな言葉がありました。「わたしたちは自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます」。
大斎節にわたしたちは、節制をしたり、自分を顧みたりして、神さまの前に正しい者になろうと頑張ります。しかし今日のお祈りにもあるように、この期間、わたしたちは自分がどれだけちっぽけな存在であるのかということに気づく必要があるのかもしれません。
先日上野聖ヨハネ教会で、世界祈祷日の礼拝をおこないました。聖公会、カトリック、日本キリスト教団、福音派といった教派が集まり、礼拝堂一杯の人数で賛美し、共にお祈りをすることができました。とても豊かな時間だったと思います。
この礼拝では、毎年ある地域のことを覚えて祈ります。今年はクック諸島でした。クック諸島は、ニュージーランドの北東約3,000キロメートルの場所にあり、フィジーとタヒチの間にあるそうです。15の島々よりなっており、その広さは、大阪市とほぼ同じだそうです。ただ大阪市の人口が877万人であるのに対し、クック諸島の人口は約19,200人しかおられません。そしてその97.8%の人が、クリスチャンです。また言語は、マオリ語と英語が共に公用語だそうです。
1773年に、イギリスの探検家クックがこの地域の諸島に上陸し調査を始めたということで、ここはクック諸島と呼ばれるようになりました。そして1888年には英国の属領に、1901年にはニュージーランドの属領になっていきます。その土地の写真を見ると、きれいな海、豊かな自然、のんびりした環境、そのようなイメージを持つ場所ですが、さまざまな困難や痛みもあるということを式文の中のメッセージで共有していきました。
それらの話を思い描きながら、神さまの恵みがすべての人に与えられていること、わたしたちはちっぽけな一人ひとりにすぎないけれども神さまは目を留めてくださること、そしてわたしたちにいろんな違いがあったとしても神さまはそのままの姿ですべての人を受け入れてくださるということを語りました。
さらにそのお話しの中で、聖公会の聖歌350番を紹介いたしました。一節の歌詞は、このようなものです。
すみわたる大空に 星影はひかり
風そよぐ野に山に 草花はかおる
数しれぬ空の星 神さまはみな数え
ひとつずつ目をとめて 守られるいつも
この素晴らしい自然がわたしたちに与えられた、その喜びを歌っています。大空、星影、野や山、草花、空の星。すべてのものを神さまは守られていると歌っているんですね。そしてその神さまの優しい目は、3節ではわたしたちにも向けられます。
さわやかな朝の日を 子どもらは受けて
苦しみをのりこえて よろこびにおどる
数しれぬ世の子らを 神さまはみな愛し
ひとりずつ目をとめて 守られるいつも
「子どもら」や「世の子」というのは、他でもないわたしたちのことです。神さまは小さく弱い、わたしたち一人ひとりのことを愛し、一人ずつに目をとめられています。そして守ろうとされているのです。
今日の福音書には、イエス様の嘆きが書かれています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。
「エルサレム、エルサレム」とイエス様は語られます。旧約聖書の中では、エルサレムという場所は神さまに選ばれた町、聖なる都、救いの場所として描かれます。ダビデ王がその場所を都とし、ソロモン王がその場所に神殿と宮殿を建てます。そしてルカ福音書においては、イエス様は誕生されたあとエルサレム神殿にささげられる、いわゆる被献日の出来事が書かれており、十字架、復活、顕現、さらに使徒言行録には昇天、聖霊の降臨にいたるまで、すべてエルサレムがその舞台となっています。
簡単にいうと、神さまの救いのご計画は、このエルサレムにおいて始まり、完結するということです。ところが、神さまが人々をいくら自分の元に集めようとしても、人々は応じようとはしなかったというのです。
なぜ彼らは、神さまの羽の下に集まろうとしなかったのでしょうか。ヒナがめん鳥の羽の下にいるとき、それは自分の力では食べ物も水も得ることができない、自分の力だけでは生きていくことのできない状況を示します。ただただお母さんに頼るしかない、そんな状態です。
人々は、自分たちはそうではない。自分の力で生きていけると考えました。羽の下で守ってもらわなくって結構。それと同時に、彼らは気に食わなかったんです。イエス様は罪人や徴税人と一緒に食事をし、病人に手を置いていました。
つまりそのような汚れた人たちが招き入れられようとしていることに、反感を覚えたのです。「みんな違ってみんないい」とはまったく正反対の状況が、そこには生まれていたのです。そこで神さまは決断なさいました。
今日の日課の中で、カッコに入っているために読まれなかったところがあります。13章29節、30節をお読みします。「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。
神さまの救いのみ手は、すべての人に向けられていくのです。イエス様の十字架の贖いも、エルサレムから全世界へと広がっていきました。わたしたちが今いる場所も、新しいエルサレムです。神さまはそこにいる一人ひとりに目を留めて、守ってくださるのです。自分で歩くことができなくても、めん鳥がヒナに必要な物を与えるように養ってくれる。
今日の特祷、「わたしたちは自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます」という言葉が示す通り、神さまはわたしたちの弱さをご存じです。だからイエス様をわたしたちの元に送られ、十字架の血によって救いのみ手を伸ばされたのです。
その手に、ただただすがっていきましょう。自分の力に頼らずに、ただ神さまにすべてをお委ねして歩んでいく。そのようなわたしたちであるようにと、イエス様はわたしたちに代わって十字架への道を進まれたのです。
その道行きを心に覚え、日々を過ごしてまいりましょう。神さまの愛がわたしたちに注がれていることに気づかされ、賛美することができますように。お祈りしております。