2020年9月6日<聖霊降臨後第14主日>説教

「心を一つにして求めるなら」

YouTube動画はこちらから

マタイによる福音書18章15~20節

 わたしたちが礼拝で用いている祈祷書には、あまり目を通すことが少ないところがあります。聖餐式で実際に用いるのは162頁からですが、その少し前の160頁にこのようなことが書かれているのをごぞんじでしょうか。

 「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受け入れずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受け入れないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する」。

 たとえば聖餐式のたびにこの言葉が朗読されたとしたらどうでしょう。ひょっとしたら陪餐の列に並ぶ人が減るかもしれません。次の週に礼拝に向かう足が重たくなるかもしれません。それほど厳しい言葉です。

 教会の中に、罪はあるでしょうか。このように問われると、わたしはドキッとしてしまいます。罪ということについて、わたしたちは目を背けてしまいます。見えないふりをしてしまうのです。でもそれでいいのでしょうか。

 たとえば澄んだ水が入った器があったとします。その水をきれいなまま保ちたいならば、どうしたらよいでしょう。答えは簡単です。濁った水や汚れた水をそこに混ぜないことです。そうすれば、水はいつまでも透明なままです。だとするならば、教会から罪を取り除きたいのであれば、こう叫ぶべきでしょう。「罪ある者はこの場から立ち去れ!」と。

 教会は信仰者だけの集まりだから、教会に来て良いのは立派な人だけ。対面だけを繕って、よそ行きの笑顔で会話し、にこやかに毎日を過ごす。しかし常に他人の目を意識してピリピリし、陰では「あの人はこうだった」、「あの人はあんなことしていた」と他人の行動の批判を繰り返す。しかしそのようなことを続けていくと、教会はとても窮屈な共同体になってしまいます。

 でもそれは、わたしたちが「罪なき者」という前提に立った上で、考えることができることです。でもどうでしょうか。わたしたち自身はどうなのでしょうか。わたしたちはきれいな水ですか。濁っていて、この場には、教会にはふさわしくない者ではないのでしょうか。先ほど、祈祷書の文言を引用しました。とても厳しい言葉です。正面から読むことがなかなかできないものです。「これは昔の考え方だ」、「教会は罪を裁くところではないから」、「そういうことをするのは教会的ではない」。いろいろな理由を挙げて、祈祷書の言葉からも、今日のイエス様の言葉からも、そして「罪」というものからも目を背けていく。それで果たしてよいのでしょうか。

 そのような思いで今日の聖書に目を向けたときに、このことに気づかされます。それは、イエス様は「罪」に対してきちんと向き合うようにと言っていますが、「罪を裁け」とは決して言っていないということです。兄弟が「罪」を犯したときには、行って二人だけのところで忠告するようにと言われているのです。その相手を叱責しろとも、その相手との関係を解消しろとも言われていません。忠告しなさいと言われているに過ぎないのです。

 そもそも聖書の罪という言葉は、わたしたちが思う罪、犯罪というニュアンスが強いのかもしれませんが、その意味とは少し違います。聖書がいう罪とは、神さまの方を向かず、的外れな方向を向いてしまっていることを言います。

 ですから罪を犯した人に対して忠告することとは、その人の向きを改めさせ、どの方向に歩むべきかを示すことです。神さまの方を向くように促すのです。そしてこれこそが、教会の使命だとイエス様は伝えられているのです。

 今日の箇所の前で、イエス様は迷い出た羊のたとえを話されました。100匹の羊のうちたった1匹が迷い出たとしても、99匹を山に残してその1匹を捜しにいく、それが神さまなのだとイエス様は説きました。そしてマタイ18章14節ではこのように言われます。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。たった1匹だったとしても神さまはその羊を必死に捜し、見つかったら大喜びで宴会を催すのです。

 つまりわたしたちが誰かの罪を見つけ、急いで忠告するのは、その人を否定するためでも排除するためでもないのです。神さまがその人のことを大切に思っているからなのです。

 先ほど、わたしたち自身は果たしてきれいな水なのだろうかという問いかけをしました。思い返してみると、わたしたちもかつて、罪の中にいたのではないでしょうか。神さまに背き、自分の思いを優先させ、生きてきた。神さまの前に立つことなどできない、そんな一人ひとりだったはずです。

 しかし神さまは、そのような小さく、まるで濁った水のようにどうしようもないわたしたちに目を留められ、手を差し伸べてくださったのです。そして濁ったままのわたしたちを、そのまま受け入れてくださった。罪にまみれ、汚れたままのわたしたちを排除することなく、招き入れてくださったのです。

 だからわたしたちも、神さまのみ心に従い、周りの人たちと関わっていくのです。わたしたちの周りには神さまを知らず、神さまにそっぽを向いてしまっている人がいるかもしれません。その人たちに対して、「向きを変えようよ」、「神さまの恵みの中においで」と招くことを、神さまは教会に対して求めておられるのではないでしょうか。

 神さまは「赦す神」です。わたしたちを赦されるお方です。赦されているからこそ、わたしたちも互いにゆるし合うことができます。お互いの罪をゆるし合い、共にいのちにあずかり、生かされる。そこにイエス様が共にいてくださってくださいます。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」、イエス様の名によって集まるところ、お互いを受け入れていくところ、神さまの赦しを求め、その恵みにあずかるところ、それが教会です。 わたしたちの教会が主のみ心に従い、共に歩んでいくことができますように。