「イエス様の祈り」
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ヨハネによる福音書17章1~11節
わたしたち聖公会は、教会暦というものを大切にしております。毎年イエス様の出来事を追体験し、神さまの救いのご計画を確認していく。その中で信仰を養っていくというわけです。
復活日から聖霊降臨日の前日まで、教会は白の期節を過ごしていきます。復活のイエス様がどのようにわたしたちに関わってくださっているのか、そのことを覚え、喜び歩んでいく。そのような日々です。
聖書によれば、復活したイエス様は40日間弟子たちと共に過ごし、天に昇られたと書かれています。天に昇る、これを昇天というわけですが、そのときにイエス様は二つの約束を残しました。
一つは、いずれ自分はまた帰ってくるということ。そのことを再臨と言いますが、いつになるかはわからないけれども、時が来たら自分はまた戻ってくる。そのことを弟子たちに告げました。
そしてもう一つの約束とは、いつ戻ってくるかわからないのでその間、弟子たちを力づけるために、聖霊を送るというものでした。その聖霊が送られたのが昇天日から10日後、聖霊降臨日の出来事というのです。
つまり教会暦から言うと、今日、この日曜日はイエス様が天に昇られた4日後であり、そして約束の聖霊はまだ与えられていない、そのような日ということです。簡単に言うと、子であるイエス様も、そして聖霊も不在のとき、そう言っていいと思います。
イエス様が十字架につけられて墓に葬られてから、復活のイエス様が弟子たちの前に現われるまでの間、弟子たちは不安で震えていました。ユダヤ人を恐れ、またイエス様を見捨てたことに対する恐れから、家じゅうの扉にカギを掛けていました。
しかし復活のイエス様に出会った彼らは、変えられました。イエス様が天に昇られたことは寂しいけれども、自分たちのために約束の聖霊を送ってくださる。ただただその約束を信じて、祈り続けていたと来週の聖書箇所である使徒言行録第2章には書かれています。なぜあんなにも弱かった弟子たちが変えられたのか。それは復活のイエス様との出会いが大きく関係していると思います。でももう一つ、彼らの心を強く支えていたことがあったのです。それが、イエス様の祈りです。
今日読まれたヨハネ17章ですが、小見出しにはこのように書かれています。「イエスの祈り」と。ヨハネ福音書には14章から16章にかけて弟子たちに対するイエス様の告別説教が書かれていました。十字架につけられる前に弟子たちを励まし、勇気づけるそのようなものでした。そして続く17章で、イエス様は祈られたのです。間もなくあなたたちの前からわたしは去っていく。しかしあなたたちが決して孤独にならないように、父なる神さまにお願いしよう。そうやって祈っておられるイエス様の姿を、わたしたちはこの主日に、いつも覚えていくのです。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。11節に、イエス様のこのような言葉があります。「彼らを守ってください。彼らも一つとなるためです」。そのイエス様のとりなしの祈りを、いつもこの時期に思い起こす。そのことが大切なのです。
わたしたちは神さまの思い、イエス様の助けがなければ、歩んでいくことのできない一人ひとりです。自分勝手に生きていくことならできるかもしれません。しかしこの地において、また天に召されたときに神さまの元で憩うこと、それはわたしたちの力でできることではなく、神さまの憐れみと愛がなければ、叶うことではありません。
今日の特祷でも祈られました。どうかわたしたちを助けのない者とせず、と。この「助けのない者」という言葉はお手持ちの日課では、「みなしご」と書かれていました。ただこの言葉に対して不快感を覚える方もおられるということ、また本来的な聖書の意味からも少し外れているのではないかということもあり、読み替えることとなりました。「助けのない者」とせず、またわたしたちを孤独のままにほったらかしにするのではなく、聖霊を与えてほしいというお祈りです。イエス様の祈りと通じる祈りです。さて今日のこの箇所は、わたしたちにどのようなメッセージを与えてくれるのでしょうか。
1つ目は、とてもシンプルなことです。イエス様はいつもわたしたちのために執り成してくださるということです。わたしたちのことを思い、わたしたちのために祈り続けてくださる方がいるということ、そして聖霊を与え、力づけてくださるという約束は、弟子たちだけではなく、わたしたち一人ひとりにも与えられているのです。イエス様が十字架につけられ、復活された意味。その大きな理由の一つが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というものです。「共にいる」、それは肉体をもったイエス様がずっとそばにいるという意味ではありません。父子聖霊、それはわたしたちにはよくわからない形かもしれないけれども、関わり続けるということです。
そのためにイエス様は祈り続け、わたしたちを決して見捨てはしないと約束してくださるのです。そしてその祈りを受けたわたしたちが、押し出されるようになすべきこと。それが2つ目のことです。それはわたしたちもイエス様と同じように、誰かのために祈るということです。日本聖公会では「み国が来ますように」という冊子をお配りしています。この中に、5人の名前を書くところがあって、昇天日から聖霊降臨日までの11日間、その人たちのことを覚えて祈るということを大切にしていきます。
イエス様がわたしたちのことを思って祈ってくださるように、わたしたちも誰かのために祈る。世界平和のためや災害からの復旧のためという祈りも大切です。でも、誰かの顔を思い浮かべながら、その人が孤独のままに置かれないようにと祈ること。そのことの大切さを、今日の福音書は語っているのです。
わたしたちの周りには、様々な不安があります。病気のこと、老後のこと、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと。それらのことを自分だけで抱えるのではなく、イエス様にお委ねする。イエス様どうぞ、わたしのために祈ってくださいとお願いする。
そして同時に、イエス様どうぞ、あの人のためにも祈ってくださいとお願いするのです。彼のために、彼女のために、祈る。その祈りの共同体こそが、神さまの望む、そしてわたしたちの求める教会なのではないでしょうか。
来週、わたしたちは聖霊降臨日を迎えます。すべての人に聖霊が与えられ、そしてたくさんの人がイエス様を受け入れますように、祈り続けてまいりましょう。