2023年10月1日<聖霊降臨後第18主日(特定21)>説教

「神さまの望み」

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 マタイによる福音書21章28~32節

 今日の福音書には、兄と弟という二人の人物が出てきます。そして二人が取った行動が違うという物語です。わたしたちはこの物語から、どんなメッセージを受け取ればいいのでしょうか。血液型の性格判断のように、「わたしは兄タイプ」、「あなたは弟ね」と自分がどちらに属しているかを知る、それだけでよいのでしょうか。

 今日の福音書を、もう一度見てみたいと思います。お父さんには二人の息子がいました。お父さんは最初、兄に言います。「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と。ところが兄はその言葉を拒否して、「嫌です」と答えます。するとお父さんは、ぶどう園に誰か行ってくれないと困るのでしょう。弟にも同じように、「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言います。すると弟は「承知しました」と答えます。この時点では、兄は「嫌だ」、弟は「いいよ」と答えたということです。

 しかし実際にぶどう園で働いたのは、兄の方でした。「嫌だ」と言った兄は考え直してぶどう園に出掛けました。しかし「いいよ」と言った弟は、そう答えたものの、ぶどう園に行くことはなかったということです。

 面白い話です。返事だけを見ると、弟の方がいい感じです。「はい、わかりました」、いい返事です。でも兄は違いました。「嫌です」。この時点では、父親は当然、弟に良い印象を抱いたはずです。ところが実際には、ぶどう園で働いたのは兄でした。弟は良い返事はしたものの、ぶどう園には結局行きませんでした。二人そろって、父親に返事したのとはまったく逆の行動を起したのです。

 さて、イエス様はこの話を聞いていた人たちに対して、「どちらが父親の望みどおりにしたか」と問います。人々は「兄です」と答えます。わたしたちの多くも、そう答えるでしょう。なぜなら実際にぶどう園に行って働き、汗をかいたのは兄だからです。弟は返事だけはよかったけれども、結局何もしなかったのです。

 わたしたちはこの聖書の物語を読むときに、誰かを弟になぞらえて批判を繰り広げることがあります。「あいつは口ばかりで働かない」、「あんな偉そうなこと言っているけどその働きはどうなんだ」。時には教会や牧師に対しても、そのような批判をすることもあるでしょう。

 逆に悔い改めて劇的に信仰に入った人を、この物語に出てくる「兄」として捉えていく。最初は神さまの言いつけを守らなかったけれども、途中で心を入れ替えてぶどう園に行った。それは素晴らしいと、考える。そして、「弟」はファリサイ派や律法学者、「兄」は罪人や徴税人、娼婦たち。そのように二つのタイプを明確に分けるのです。そしてわたしたち一人一人も、「兄」のようにならないと救われないと説く。それが果たして、この物語が伝えたかったことなのでしょうか。

 ここで少し視点を変えてみたいと思います。この物語に出てくる二人の兄弟に、大きな共通点があることにお気づきでしょうか。父親に対する返答も、実際の行動も真逆の二人ですが、実はこの二人には共通点がありました。それは二人とも、「心変わりした」ということです。

 この物語には、二人の兄弟しか出てきません。しかしよく考えてみると、あと二つ、行動パターンがあると思います。一つは父親の呼びかけに「はい、行きます」と素直に答え、実際にぶどう園にも行ったというもの。そしてもう一つは「嫌です」と答え、ぶどう園には行かなかったというもの。しかし物語に出てくる兄も弟も、「有言実行」ではありませんでした。「そうは言ったものの」と途中で心を変え、父親に対して放った言葉とは違う行動をしたのです。少なくともこの部分においては、この兄弟は同じだと言えるのです。

 考えてみますとわたしたち人間は、常に心変わりする存在ではないでしょうか。言葉とおこないが一致しないことは、しょっちゅうです。「神さまのために良いことをしよう!」と朝に決意しても、夜に思い返してみれば何もできていないばかりか、人を傷つけていたということなどしばしばです。逆に朝から心が暗く、顔に出るくらいイライラしているのに、なにげに人に親切に出来たり、周りの人を笑顔にすることができたりということもあります。

 わたしたちの心は、いつも揺れ動くのです。時には兄のように良い方向に向かうこともあれば、弟のように父を悲しませることもあります。それは、わたしたち人間は決して完全ではないからなのです。

 イエス様はこのたとえを話された後に、周りの人たちに問いかけました。「どちらが父親の望みどおりにしたか」と。人々は「兄です」と答えました。しかしここでイエス様は、明確に「そう、兄が望みどおりだね」とは言われませんでした。

 2000年前であれば、徴税人や娼婦たちが兄にたとえられているのだろう、イスラエルの宗教指導者たちは口ばっかりで行動を起さない弟にたとえられているのだろうで終わってしまいますが、それではこの物語は2000年前のただの昔話になってしまいます。なぜならわたしたちは、徴税人でも娼婦でもないからです。もっというと兄と弟のどちらでもありうる一人一人です。兄であったり、弟であったり、いつもフラフラ揺れ動く。そんな不完全なわたしたちにとって、この箇所のメッセージは何なのでしょうか。

 イエス様が問われた「父親の望み」とは、一体なのでしょうか。ぶどう園で働くということ、それは神さまの働きに参与することです。神さまの恵みを両手いっぱいに抱え、それをたくさんの人と分かち合うことです。父である神さまは、その働きを一緒にして欲しいと、兄にも、弟にも、そしてわたしたちにも呼び掛けておられるのです。

 途中で何回気が変わってもいいのです。心変わりしてもいいのです。すぐに行きますと言ってぶどう園に行った人には、ふさわしい恵みをあげよう。最初は生き渋っていたけどあとからようやくぶどう園に来た人にも、ふさわしい恵みをあげよう。「わかりました」と約束していたにもかかわらずなかなかぶどう園に姿を見せない人にも、きっといつかやって来ることを信じてふさわしい恵みを用意しておこう。そして「嫌です」と言い切り、まったく姿を見せない人だとしても、いつまでも待ち続けよう。

 それが神さまの望みです。神さまはわたしたちがその恵みに与かり、すべての人が喜びで満たされることを願っておられます。その働きを共に担うことができれば、どんなにうれしいことでしょうか。不完全なわたしたちだからこそ愛し、いつまでも門を開いて待ち続けてくださる神さまの愛に感謝し、その呼び掛けに応えることができればと思います。