「毒麦と良い麦」
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マタイによる福音書13章24~30、36~43節
先週の種を蒔く人のたとえに続き、今週は「毒麦のたとえ」と呼ばれるイエス様の言葉に聞いていきたいと思います。今日のたとえ話の中で、不思議なことがあります。それは毒麦を育つままにしておくということです。
当時のユダヤの農業では、そのようなやり方が常識だったのかというと、そうではありません。毒麦をほったらかしにしておいたら、良い麦に本来行くはずだった栄養や水分が奪われるかもしれません。あるいは毒麦が育つことによって日光もさえぎられ、やせ細った麦になってしまうかもしれないのです。
イエス様はたとえの中で、今は毒麦を抜くなと命令されていますが、聞いている人たちは思ったことでしょう。「いやいや、抜くなら今です。早く抜いてしまわないと、大変なことになります」。
イエス様はどうしてこの話をされたのでしょうか。常識的に考えて首をかしげざるを得ないようなことを、なぜ語られたのでしょうか。そのヒントは、イエス様の最初の言葉にあります。
イエス様は言われます。「天の国は次のようにたとえられる」。そうです。これは天の国のたとえです。わたしたちの常識とは違うことが、天の国では当たり前になっている。そのことをイエス様は伝えられているのです。
その天の国での常識とは、「毒麦は育つままに育てておいて、刈り入れのときに束にすればよい」ということです。その束は最終的に焼かれるかもしれないけれども、とりあえず今は、そのままでいいよということなのです。それからもう一つ、あなたたちは毒麦をどうしようか、抜いてしまおうかなんて考えなくていいということです。
このたとえ話を聞いて、反応は二つあると思います。一つは「よかった」という反応、もう一つは「そんな生ぬるい。毒麦なんて抜かなきゃいけないのに。そんなことでいいのか」という怒りにも似た反応です。
マタイによる福音書はイエス様が十字架につけられて、50年くらいして書かれたと先ほどお話ししました。さらにこの福音書ですが、イエス様を受け入れたユダヤ人に対して書かれたと考えられています。当時キリスト教は、その元になったユダヤ教からも、ローマの人々からも迫害されていました。この福音書は、そのような人たちに書かれています。
迫害の真っ只中にいる人たちにとって、最も恐れていたのは敵対者の存在でした。あるいは自分たちの間に紛れ込むスパイの存在でした。彼らにとってそれは、まさに毒麦のような人たちでした。日々の祈りの中で、彼らは必死に願っていたのかもしれません。「神さま、早くこの状況を何とかしてください。この敵対者たちをわたしたちの前から取り除いてください」。
そしてこの願いは、キリスト教会が成立して現在まで2000年の間、ずっと続けられているものなのかもしれません。外からの異物を拒絶し、自分とは違うものを受け入れない。その根底には、自分こそ正しいという思いがあります。
自分は良い麦なんだ。だから毒麦を排除していかなければならない。変な正義感の中で、神さまのみ心だと相手を攻撃していく。 これが単に教会に、共同体に受け入れるかどうかという話だったらまだいいですが、邪魔者は殺せと戦争に発展していくことだって、現実にあったわけです。そのことを、神さまは否定しているとイエス様は伝えているのです。
あなたたちは、やれ、これは毒麦だ、あれも毒麦に違いないと、他人を許そうともしないし、毒麦を抜くのにやっきになっている。でもそれは、神さまのなさることなんだ。あなたがたがすることではない。すべては神さまに任せなさい。
このメッセージは、自分は正しい、自分は良い麦だと胸を張って言える人にとっては、物足りないものかもしれません。しかし、わたしを含めた多くの人たちにとって、このイエス様の言葉は素晴らしい福音なのです。
どういうことでしょうか。それは、わたしたちはかつて、毒麦であったということです。どうしようもなく、捨てられるしかなかった存在。引き抜かれて束にされ、燃える炎の中に投げ込まれるのをおびえるしかなかった存在でした。わたしたちはイエス様に出会わなければ、ただ滅んでいくのを待つだけの、そんな一人ひとりだったはずです。しかしわたしたちはイエス様に出会い、生かされています。毒麦から良い麦に変えられ、命を与えられたのです。
でもわたしたち人間は、その大きなお恵みを忘れてしまうのですね。いつの間にか、自分の力で良い麦になったのだと勘違いしてしまう。自分たちがいる教会という畑に、毒麦が混ざってほしくないのです。毒麦だって思ったら、全力で抜きにいくのです。
イエス様は言われます。そんなのは天の国じゃないって。毒麦は抜かずにそのままにしておく。それはただほったらかしにするという意味ではありません。毒麦が良い麦に変えられるのを、みんなで待つのです。神さまはきっと豊かな収穫を与えてくださる。そのことを信じて、わたしたちは与えられた賜物を生かして生きていくのです。
昨今、教会の信徒数が減り続けているという話をいろんなところで聞きます。その理由は何でしょうか。多くの人にとって教会は、そして神さまは必要なくなってしまったのでしょうか。そんなことはありません。
国内を見てもたくさんの人が心の病気を抱え、自殺に至る人もいる。コロナの影響でたくさんのものを失った人がいる。若者が宗教離れしているかというとそうではありません。カルトと呼ばれる団体に入り込んでいく若者は、実際に多くいるわけです。
ただ単に、教会がそのような人たちの受け皿になっていない、そういう人たちを受け入れていないのです。そういう人たちを排除しよう、抜き取ろうとしているだけなのです。
わたしたちは何のために教会に連なるのでしょうか。自分たちが良い麦へと変えられるため。良い麦に変えられた自分たちが大きく成長するため。そして何よりも、外から入ってきた様々な人たちと、共に歩むためではないでしょうか。
わたしたちの目には、彼らは毒麦に見えるかもしれません。でも神さまの目から見たら、それはきっと良い麦に変えられる、必ず良い麦として育まれていく、そのような一人ひとりなのです。
神さまが望まれている豊かな世界を心に思い浮かべながら、わたしたち一人ひとり、歩むことが出来たらと思います。