2021年4月11日<復活節第2主日>説教

「安かれ」

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ヨハネによる福音書20章19~31節

 今日、わたしたちは復活節第2主日を迎えます。昨年の復活節第2主日は4月19日でした。その日は、奈良基督教会にとって大きな決断をした日でした。昨年の4月16日に全国に緊急事態宣言が出され、それに伴い4月19日、復活節第2主日から5月24日まで礼拝を休止したわけです。主日に教会を閉める。その決断は、とても大変なものでした。昨年の四月に奈良に赴任して、みなさんの顔とお名前もまだ全然一致していないのに、教会の門を閉めてしまう。シャットアウトしてしまったのです。

 その状況が、今日の福音書の物語と重なって仕方ないんですね。弟子たちがユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていた、その情景に。

 この物語は、復活日の夕方の出来事です。最初にお墓に行ったのはマグダラのマリアでした。彼女はイエス様が墓から取り去られているのを見ます。そしてペトロとイエス様が愛しておられたもう一人の弟子のところに行きます。彼ら二人はそのマグダラのマリアの言葉を聞いてすぐに、墓に向かって走っていきます。そしてその墓の中の様子を見て、イエス様がおられなくなったという事実を信じます。しかしイエス様が予告されていた「復活」ということは、まだ信じていませんでした。

 その後、復活したイエス様はマグダラのマリアの前に現れます。彼女は弟子たちの元に向かい、伝えます。「わたしは主を見ました」と。そしてイエス様がマリアに語られたことを弟子たちに伝えたわけです。

 今日の場面は、その夕方の話です。彼らはマグダラのマリアの言葉を聞いていたはずです。しかし扉という扉を閉め、ユダヤ人を恐れて鍵を掛けていました。彼らはなぜユダヤ人を恐れていたのでしょうか。イエス様が十字架につけられたから、次は自分たちの番だと思ったのでしょうか。彼らはイエス様が逮捕されたときに、チリヂリバラバラ逃げ出しました。それは自分たちも逮捕されるのが怖かったからです。彼らは自分の身に危険が及ぶのを恐れ、みんなで集まって、部屋の鍵を掛けて隠れていました。そしてその心は、ブルブル、ガタガタと震えていました。心が穏やかではないのです。波立っているんです。

 その中にイエス様が来てくださった。復活されたその姿を弟子たちの間に見せられたのです。「あなたがたに平和があるように」、それがイエス様の告げられた言葉でした。そして手とわき腹を見せられたのです。この平和という言葉は、わたしたちが普段使っている平和とは、かなりニュアンスが異なります。戦争や争いのない状態を平和とわたしたちは呼びます。しかし聖書のいう「平和」はそれとは少し違っています。「平安」と呼んでもいい言葉です。

 この言葉は、神さまから与えられる祝福を意味します。わたしたちがお互いに「主の平和」と言い合うときに、わたしたちの間には神さまからの豊かな祝福が満ち溢れていることを覚えていきたいと思います。

 イエス様は復活の日の夕方、恐れ、震えている弟子たちの間に立たれました。「あなたがたに平和があるように」、以前使っていた聖書では「安かれ」とただ一言で訳されていました。どんなに心が騒いでいても、暗闇に怯え、どうしようもなくなったとしても、その真ん中に復活の主イエスが来られ、「安かれ」と声を掛けてくれるのです。

 この教会にある洗礼盤、会衆席の右手後方にありますが、教会を見学に来られた方にはその説明をすることがあります。一番目立つのは、上に乗っている鳩です。イエス様が洗礼を受けられたシーンやノアの箱舟にも鳩が出てきますというお話しをします。また側面に彫られている動物は、小羊ですと。この小羊はいけにえの象徴で、わたしたちの身代わりとしてイエス様が十字架につけられたことを意味しているんです。だからこの小羊、十字架を持っているでしょうというと、たいていの方は「ほ~」っと感心されたような声をあげます。そして視線をもっと下に落として、洗礼盤の下の方に彫られた部分を指さして言います。「そしてここには、ほら、波があるでしょ」と。すると「本当だ」という声をあげる方が多くおられます。

 といいますのも、この教会には舟を連想させるところが数多くあるからです。欄間に彫られた透かし彫りは、波の形ではないかと言われています。またこの礼拝堂自体が箱舟の形に形容されることもあります。

 それはわたしたちの人生が、まるで小さな舟が波の上を漂うようなもの、常に不安を抱え、すぐに沈みかけ、また行き先を見失ってしまう、そのようなものであることを意味していると思います。

 洗礼のときもそうです。イエス様の十字架にすがり、新しい自分に生まれ変わろうとするそのときも、わたしたちはまさに波の上にいるのです。怯え、震えながらも、しかしそこに「安かれ」と語り掛けるイエス様の姿を見るのです。

 復活のイエス様との出会いは、すぐに彼ら弟子たちを180度変えたわけではなかったかもしれません。現に8日経った後も、彼らは戸にみな鍵をかけていました。しかし彼らは口々に言っていたことでしょう。「わたしは主に出会った」、「わたしはイエス様に声を掛けてもらえた」。これはある意味、教会のあるべき姿かもしれません。恐れはある。不安もまだぬぐい切れない。でもそれよりも大きな喜びが、彼らの中にはあるのです。

 その喜びに、少し乗り遅れた一人の弟子がいました。トマスです。彼はイエス様が来られたとき、その場にいませんでした。「見ないと信じない」と言い切る彼の元にも、しかしイエス様は来てくださいました。

 この8日という数字に、わたしは心が向きました。聖書では7は完全数です。例えば天地創造では、7日目に神さまは休まれました。また一週間も7日間です。7というのは、何かが完結するということをあらわします。そして8というのは、新たな始まりを示すのです。その新しい一歩を、トマスという弟子が踏み出しました。トマスはディディモとも呼ばれていました。ディディモとは双子のことです。しかし聖書には、双子のもう一人の存在には全く触れていません。わたしは思います。トマスの双子のもう一人、それはわたしであり、あなたであると。「そんなことは信じられない。そんなことあるはずない」と否定するわたしたちの元に、新たな始まりを告げる方が来られるのです。