2025年8月3日<聖霊降臨後第8主日>説教

「人は何で生きるか?」

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 ルカによる福音書12章13~21節

 8月1~3日、北小松で奈良基督教会ファミリーキャンプが行われています。キャンプというのは不思議なもので、初めて出会った者同士でも笑い合い、助け合い、心を開いて語り合うそんな時間がながれます。今年は44名の参加があり、普段教会に来ている方々だけでなく、今回初めてお友だちに誘われて来たという方々もおられます。6か月の赤ちゃんからお年を召した方まで年齢は様々ですし、職業も色々です。背景のまったく違う人たちが何も持たずに集まり、一緒に泳ぎ、ごはんを食べ、語り合う。そんな景色の中で、人は本当に、神さまの前ではみな家族で、兄弟姉妹なんだなぁと思わずにはいられません。ここにある時間こそが、本当の平和、神の国なんだろうなと思わされます。そんな中、心の中にこんな問いが浮かんできました。「人は、何によって生きるのか?」というものです。

 中学1年生の時の夏休み、私は読書感想文の宿題に苦しんでいました。まずどんな本を選べばよいか分からず、父に相談したら、ある本を勧めてくれました。トルストイの短編『人は何で生きるか』です。短い小説なのですぐ読めたのですが、当時の私は、正直よく分からなくて感想文を書くのが大変でした。でも、大人になってからもう一度読み返したとき、その物語の温かさが胸にすっと染みてきたのです。

 ある貧しい靴屋・セミョーンが、雪の中で凍えていた見知らぬ男を家に招き入れます。その男、実は天から罰として地上に落とされた天使ミハイルでした。彼には、神さまから難しい問いが与えられ、その答えを見つけるまでは天に帰ることができません。でも、ミハイルは地上にいる間にいろんな人たちに出会い、かれらの姿とその行動を見て、やがてその答えにたどりつきます。 彼が得た答えは、人の中には愛があるということ、人は自分に何が必要かを知ることができないということ、そして、人は自分の努力ではなく、愛によって生かされているということでした。このミハイルが見つけた言葉は、まさに今日のさきほどお読みした福音書の「愚かな金持ち」のたとえと響き合うんですね。

 遺産をめぐって争う兄弟に対して、イエス様は「人の命は財産によってどうすることもできない」と言い、こんな金持ちの話をされました。穀物がたくさん採れて、「もっと大きな倉を建てよう」「これでもう安心だ」と自分に言い聞かせた男。しかしその夜、神さまは言うのです。「愚か者よ。今夜、お前の命は取り去られる。お前が用意したものは、誰のものになるのか?」

 彼は「自分のため」に蓄えました。でもそれが、命に必要なものではなかったのです。

 私たちは、生きるためにいったい何を積み上げているのでしょうか? ルカの福音書に登場する金持ちは、「自分のための富」を積み上げました。私たちも似たようなものかもしれません。長く豊かに生きるために、お金が必要、健康が必要、よい環境が必要と、自分の心配ばかりしてあれも手に入れよう、これも手に入れようと必死になります。そして手に入れたら、今度はそれを失わないようにと必死になります。

 私たちはとんでもない思い違いをしているのかもしれません。神さまの造られたこの美しい世界を自分たちのものであると思い込み、自分の命も自分の力でコントロールできると思い込んでいるのではないでしょうか。でも、そうじゃないんだよということをトルストイと、そしてイエス様は教えてくれます。どんなに自分の力で富や名声を積み上げたとしても、それは本当の命にはつながらない。人間は、愛があるから生きていける、誰かのために愛を使うからこそ、本当の意味で生きていけるのです。

 イエスさまが私たちに教えてくださった愛とは、自分の命をさえ差し出す愛でした。そして今も、その愛によって私たちは生かされています。そのことを、私たちはこのキャンプという場でほんの少しでも思い出すことができるような気がしています。人の話に耳を傾け、困ったことがあれば助け合い、自分の気持ちをちょっと我慢してでも目の前にいる人の笑顔を見たい、そんな気持ちを自然に持つことができる。それが愛によって生きているということではないでしょうか。

 みなさんも、ぜひこの夏、暑いですけれどもどこかで、神さまの造られた美しい世界を感じ、与えられたたくさんの恵みと愛を思い出して、それをまわりの人と分かち合う、分かち合わずにはいられない経験をしてみてください。そして、自分の富をしまっておく倉を広げるよりも、心を広げて、愛をもって生きる者となりましょう。