「見ないのに信じる」
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ヨハネによる福音書20章19~31節
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。先ほど読まれた使徒書、ペトロの手紙の中に、このような言葉がありました。イエス様を見たことがないのに愛している、イエス様を今見なくても信じている。教会に連なるわたしたちは、そのようにありたいと願っています。しかしなかなかそうはいかない、というのが本当の所かもしれません。
先週の日曜日、わたしたちは復活日をお祝いしました。そのときの説教の中でも語りましたが、復活日に読まれる福音書はイエス様が目に見える形で甦るというものではなく、「空の墓」の物語が語られていきます。イエス様のご遺体があるはずの墓に行ってみたら、そこには亜麻布が置いてあるだけだったというものです。少なくとも福音書の中では、復活の喜びというよりも戸惑いや困惑の方が、全面に押し出されているのです。
先ほど読まれた福音書もそうです。聖書はこのような記述から始まります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。これは、先週読まれた箇所の続きです。つまり今日の最初の場面は、復活日の夕方のお話しなのです。2000年前の復活日の夕方、弟子たちは家の戸に鍵を掛け、恐れていました。
「イエス様が復活されたことを知らなかったんじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。先週の福音書を少しおさらいしてみましょう。復活日の朝、まだ暗いうちに墓に向かったのはマグダラのマリアでした。彼女は墓から石が取りのけてあるのを見て、二人の弟子にそのことを告げました。二人の弟子、そのうちの一人はペトロでしたが、彼らは墓に走り、そして一人ずつ墓の中に入ります。しかしそこは、空の墓でした。そこで二人は、イエス様が墓からおられなくなった事実を信じ、家に帰っていきました。マグダラのマリアはそのまま墓におり、泣いていました。そこに二人の天使が現れ、さらにイエス様も現れました。マリアは最初、それがイエス様だとは分かりませんでしたが、「マリア」と呼びかける声に目が開かれました。そしてマグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えました。つまりペトロともう一人の弟子はイエス様がおられなくなった空の墓を自分の目で確かめ、また他の弟子と一緒にマグダラのマリアの言葉、「わたしは主を見ました」という言葉を聞いたのです。これが先週読まれた場面でした。
しかし彼らは、家の戸に鍵を掛け、恐れていました。彼らは信じることができなかったのです。イエス様が三日目に復活することになっていると言われたその言葉を、理解することができなかったというわけです。
この描写は、ある意味わたしたちに安心を与えてくれます。イエス様の一番近くにいた弟子たち、行動を共にし、直にいろいろな教えを聞いていた彼らでさえ、「復活することになっている」という言葉の意味がわからなかったのです。
彼ら弟子たちはユダヤ人を恐れ、家の戸に鍵を掛けていました。ユダヤ人たちに見つかれば、イエス様と行動を共にした彼らです。自分たちも捕まってしまうと思ったのかもしれません。でも恐れていたのはユダヤ人だけでしょうか。もし本当にイエス様が復活したとしたら、自分たちは赦してもらえるのだろうか。そうも考えたのかもしれません。彼らはみな、イエス様を見捨てて逃げました。確かに銀貨と引き換えにイエス様を裏切ったのは、イスカリオテのユダです。しかし彼らは結局、イエス様を見捨てます。これも裏切りだと言われても仕方ありません。
彼らは目に見える戸に、鍵を掛けてまわります。でもそれ以上に、自分の心にもしっかりと鍵を掛けたのではないかと思います。何も信じられず、暗闇の中で震える弟子たち。それが復活の日の夕方の光景だったのです。
その恐れのただなかに、復活のイエス様が来てくださいました。イエス様は弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。平和というよりも、「平安、汝らにあらんことを」とか、「安かれ」の方がしっくりくるかもしれません。イエス様はどうして復活されたのか。それは神さまのご計画でした。わたしたちと神さまとの間にできた深い溝をイエス様の十字架の血によって贖い、そしてイエス様を復活させ、「世の終わりまでわたしはあなたがたと共にいる」という約束をくださいました。では何のために共にいてくださるのでしょうか。それは、わたしたちの心が平安であるようにという思いからです。「やすかれ わが心よ」という聖歌を、お葬式のときに歌うことがあります。とても静かなメロディで、心にいろいろな思いが浮かんでくる歌です。でもその悲しみの最中にも、きっとイエス様が来てくださって「安かれ」と優しく語り掛けてくださる。目には見えなくても、イエス様を愛し、信じる。そのことができればと、心から思います。
でもそれでも、なかなか心からイエス様を受け入れることができない。それでもいいのです。聖書は物語を続けます。次に出てくるのは、トマスの物語です。八日の後、ということはユダヤの日の数え方では復活日の次の日曜日、つまり今日のことです。
トマスは前の日曜日、どこかに出掛けていたのでしょう。復活のイエス様に一人だけ会うことができませんでした。他の弟子たちが喜んでいるのを見て、一人ふてくされます。「わたしはこの目で見ないと信じない」。しかしそう言い切るトマスの元にも、イエス様は平安を与えに来てくださるのです。
トマスは、「ディディモのトマス」と呼ばれます。ディディモとは双子のことです。けれども聖書には、双子のもう一人のことは全く書かれていません。こういう解釈があります。トマスの双子のもう一人は、あなたなのだと。つまり疑い深く、人の喜びを共有できず、一人ふてくされて、目に見えないものしか信じられない。そのトマスの姿は、あなた自身の姿なのだと。しかし、聖書は伝えます。そのトマスの元にも、そしてあなたの元にも、必ず復活のイエス様はきてくださるのだと。そして、平安を与えてくれる。主日が来るたびに、教会では復活のイエス様を記念して、聖餐式をおこなっています。
その中で、いつも誰かが、イエス様を感じているのです。イエス様を心にいただき、イエス様が共にいてくださることを知り、そして外へと遣わされていく。弟子たちが、そしてトマスがしっかりと掛けた鍵など、イエス様には全く関係ないのです。
みなさんの心の鍵がかかっていようとも、イエス様は必ず来てくださいます。そのことを信じ、歩んでまいりましょう。