2021年8月1日<聖霊降臨後第10主日(特定13)>説教

「命のパン」

YouTube動画はこちらから

ヨハネによる福音書6章24~35節

 今週から教会では、4週にわたってヨハネによる福音書が読まれます。先週まではマルコ福音書で、先週の箇所ではみさ司祭が、湖の上を歩くイエス様が、「安心しなさい。わたしだ」と語られた場面を取り上げられました。

 「わたしだ」、その言葉は旧約聖書の中で神さまがモーセに対しご自分を現されたときに言った、「わたしはある」という言葉に通じるということを言われていたと思います。「わたしはある」、そういって神さまは、ご自分が一体何者かということを、モーセに示されました。

 そして今日の箇所、ヨハネによる福音書の中でイエス様もまた、ご自分は何者かということを、周りの人たちに、そして今この場にいるわたしたちにも語りかけられておられます。「わたしが命のパンである」、その言葉に今日は聞いていきたいと思うのです。

 今日、この日にこの箇所が選ばれたことは、決して偶然ではありません。今日から教会では、奈良県の新型コロナウイルスの現在感染者数が250名を超えたために、聖餐式ではなくみ言葉の礼拝をおこなっております。みんなで食卓を囲みパンをいただくということが、今日からまたできなくなったわけです。

 6月20日の堅信式から聖餐式を再開して、わずか6週でまたみ言葉の礼拝に戻ってしまう。先日ある方が、「早くパンだけではなくぶどう酒もいただきたいわぁ」ということを言っていましたが、ぶどう酒どころか聖餐式そのものができなくなってしまいました。

 もう1年半も、コロナによってわたしたちの生活は変えられていきました。あんなに違和感のあったマスク姿も、みんな板についてきました。礼拝堂の座席も、みんな余裕をもって座るようになってきました。

 最初は毎回大騒ぎしながら作っていたYouTube用の動画も、1週間のスケジュールに組み込まれ、そんなにストレスなく配信できるようになってきました。いろんなことに慣れ、当たり前になっていったことがたくさんあります。

 でも決して、簡単に慣れてはいけないこともあると思います。それはわたしたちの飢えであり、そして渇きなのではないでしょうか。

 イエス様は言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

 わたしたちはなぜ、聖餐式をおこなうのでしょうか。2000年前にイエス様は弟子たちに対して最後の晩餐をおこない、「あなたがたも同じようにしなさい」と言われました。だからわたしたちも、パンを裂き、杯を回すというその儀式を再現しているのでしょうか。

 この前のYouTube動画、「行ってみよう、奈良基督教会」では、礼拝堂の前の方、聖所や至聖所といったところを紹介しました。現在陪餐は、みなさん階段の下でされますが、もともとは聖所と至聖所の間、コミュニオンレールと呼ばれる場所でされていたと思います。

 この空間を、特別なものだと感じるのは、決してわたしだけではないと思います。神さまの前にひざまずき、パンとぶどう酒をいただく。それは決して単なる儀式ではありません。そこには神さまの恵みが満ちあふれているのです。

 聖餐式の司式をしているときに、共にいてくださるイエス様を強く感じることがあります。それはわたしだけではないようで、時折涙を流しながら、喜びをかみしめながら、「アーメン」と力強く唱えながら、陪餐をされる方がおられます。わたし自身も急に涙があふれてくるという経験を、何度もしております。

 わたしたちの飢えや渇きが、神さまによっていやされる。神さまが天からのまことのパンをお与えになり、わたしたちに命を与える。そのことをわたしたちは聖餐式によって想起している、何度も何度も思い起こしているのです。

 わたしたちが聖餐式でいただくパンは、この一週間を乗り切るための栄養剤ではないのです。わたしたちが神さまからいただいているあふれる恵みを思い起こす、神さまによって生かされているんだということに気づかされる、そして神さまは決してわたしたちを見捨てられないということを確信するために、わたしたちは聖餐にあずかるのです。

 だからこそ、この時期を大切に過ごして欲しいんですね。今、わたしたちは聖餐にあずかりたくてもあずかれない、そんな状況にあります。それどころか、礼拝にすら来ることができない、そのような方も多くおられます。

 礼拝に来ることができない。聖餐にあずかれない。そのようなときに、わたしたちの心は飢え、魂は渇きます。でも必ず、思い起こして欲しいのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」というイエス様の約束の言葉を。

 飢えるからこそわたしたちにはイエス様が必要です。渇くからこそわたしたちには神さまの恵みがいるのです。心の貧しいものは幸いであるという言葉が心に響きます。飢えと渇きを感じながら、そのことを心に留める大事な時期として、今、このときを過ごしていきましょう。

 そしていつの日か、何の制限もなくみんなで集えたときには、また一緒に主の食卓を囲みましょうね。神さまによって生かされている自分たち、すぐに飢えや渇きを感じてしまう自分たちを感じながら、神さまの恵みを大いに喜び合いたいと思います。

 必ず光はやってくる。朝は訪れる。だからわたしたちはこのときを、乗り越えることができるのです。今は一緒に集えない。聖歌も歌うことができない。食卓も囲むことが許されない。寂しいです。つらいです。不安です。

 でも大丈夫です。神さまがいてくださいます。そのことを信じて歩んで参りましょう。わたしたちにはイエス様という、命のパンが与えられているのですから。