2021年8月8日<聖霊降臨後第11主日(特定14)>説教

「わたしをお遣わしになった方の御心」

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ヨハネによる福音書6章37~51節

 8月4日の水曜日に、わたしは「比叡山宗教サミット」というものに参加してきました。比叡山といえば仏教の天台宗の総本山です。どんな集まりなのだろうかと期待半分、不安半分で参加しました。例年に比べるとかなり少なめに参加者は絞られたそうですが、それでもたくさんの人が集っていました。

 その中に書かれていた『世界平和祈りの集い』の開催趣旨を読んでいて、この集まりは仏教の中にキリスト教の人間として招かれたものというよりも、わたし自身も主体的に参加すべきものだったのかと気づかされました。趣意書にはこうあります。

 諸宗教の対話と協力に力を注がれたローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世聖下の提唱により、1986年10月に世界の諸宗教指導者がイタリアの聖地アッシジに集い、それぞれの宗教儀礼で、世界平和を希求する祈りを捧げました。この集いに参加した第253世天台座主山田惠諦猊下は、「アッシジの精神」を引き継ぎ、日本においても世界平和祈りの集いを執り行うことを世界の宗教者に提言いたしました。日本のさまざまな宗教者もそれぞれの立場で世界平和のための運動を展開しており、宗派を越えたご賛同をいただき、日本宗教代表者会議が主催者となり、1987年8月3日、4日の両日、比叡山山頂にて「比叡山宗教サミット『世界宗教者平和の祈りの集い』」が開催され、世界の諸宗教代表者と共に世界の平和を祈ることができました。

 以来、毎年「平和の祈り」はその時々の国際社会の状況や人々の生活環境を反映しながら続けられてきました。

 平和を願うということは、どういうことなのでしょう。1987年、アッシジにおける祈りから一年後、最初におこなわれた比叡山宗教サミットで、比叡山メッセージというものが出されました。そこにはこうあります。

 平和の願いは、いかなる宗教にとっても根本的なものであることをわれわれは認識し、かつ主張する。そもそも平和とは、単に戦争がないということではなく、人間どうしのむつみ合う融和の状態、人類共同体の実現をいう。およそ正義や慈悲のないところに平和はない。かかる平和こそ、全ての宗教者によって誠実に希求されなくてはならない。

 平和でありたい。その願いは、そもそも宗教によって違うわけではありません。でもわたしは昔、平和について語っているときに、とてもショックな言葉を言われたことがありました。「平和、平和って言うけれども、戦争の原因はほとんど宗教じゃないか」。

 その言葉を聞いて、わたしはまったく反論することができませんでした。確かにそうなんです。世界の歴史を見たときに、多くの争いに宗教が関わっている。それは最近もそうです。イスラム国とアメリカ、その状況をみたときに、宗教が平和を求め続けているとは到底言えない、そう思ってしまうんですね。

 おととい、広島の原爆の日に、礼拝では聖歌421番を用いました。歌わずに伴奏だけを聞いたのですが、その中に、このようなフレーズがありました。「神の名のもとに」流される人の血、「神の名のもとに」むなしくなる言葉、「神の名のもとに」繰り返す戦争。

 「平和の願いは、いかなる宗教にとっても根本的なものである」、そのことに異論を唱える人はまずいないでしょう。しかしその「平和」ということに、ズレがあるのか。そもそもどうなることが平和なのか。少し聖書に戻ってみましょう。

 イエス様は言われました。「自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行う」と。イエス様の意志とイエス様を遣わされた神さまの御心とが違うということを強く言っているわけではないと思います。それよりも言いたいのは、「あなたがたの願いどおりにはならない」ということではないかと思うんですね。イエス様の周りにいた人たちの願い、それは自分たちが今いる状況から解放されることでした。しかし、個人的な苦しみから解放されるために、ローマの支配が覆され、豊かな人や権力を持った人が罰を受けることを。

 わたしたちが求める平和も、ともすれば自分勝手なものになってはいないでしょうか。自分が幸せであるために、家族、仲間、国、民族、自分と関係する人たちが平和であるなら、周りは知らない。その延長線上には、争いが起こってしまうのです。

 イエス様が「神さまの御心」を求められたように、わたしたちもまた、自分たちの正義ではなく、「神の義」を求め続けなければならないのです。人間どうしのむつみ合う融和の状態、人類共同体の実現のために、わたしたちには何が出来るのか、ということなのだと思います。

 先ほどの比叡山メッセージにはさらにこのようにあります。

 われわれが祈るとき、われわれはまず平和の務めに相応しからぬことを認めざるをえない。そのゆえに、より忠実に献身しうるよう、自らの内面的革新をひたすら乞い求める。平和のために祈ることは、平和のために働くこと、そして平和のために苦しむことですらある。

 そもそもわたしたちは、平和を求めるのにふさわしい一人ひとりだろうか、そのように問いかけるんですね。神さまから与えられたこの世界を自分の都合の良いようにつくりかえ、そして自分たちと考えの違う人たちを排除していく。それを平和だと考えているのであれば、それは違うのです。

 でもわたしたちは、どうしてもそうなってしまう。自分たちの利益を求め、自分たちの住みやすい世界を求める。それは神さまからみたら、正しいこと、義ではないのです。そのことをまず、自覚しなければならないのです。

 それは苦しいことでもあります。神さまにとってよい世界を追い求めることは、周りの人の理解を得ることもできないかもしれません。ではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。さらに続けて、このように書かれています。

 宗教者は、常に弱者の側に立つことを心がけねばならない。

 われわれの使命はあまりに大きく、われわれの力はあまりに小さい。それゆえわれわれは、まず祈りから始めなければならない。われわれを超えた大いなる力によってわれわれの真実の祈りは聴かれ、われわれの切なる願いは顧みられることをわれわれは認識し、確信する。

 わたしたちの周りには、たくさんの人たちがいます。傷つき、苦しんでいる人たちがいる。明日に向かって、もがいている人たちがいる。その人たちのことを覚え、祈ること。その一人ひとりの姿を思い描き、祈り続けることが大切なのです。

 そのときにこそ、わたしたちには神さまのみ心に適った真の平和が与えられるのではないでしょうか。

 わたしたち一人ひとり、共に祈り続けましょう。そして御国が来ますようにと、願い続けてまいりたいと思います。