2021年9月19日<聖霊降臨後第17主日(特定20)>説教

「後の者」

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マルコによる福音書9章30~37節

 イエス様は先週の箇所に引き続き、今週もご自身の最後について語られます。人の子、つまりイエス様は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する、これがイエス様の語られた予告でした。これを聞く弟子たちの気持ちはどうだったでしょうか。多分「復活」という言葉はあまり頭に入らなかったと思います。一回目のときにペトロが「そんなこと言わないでください」と言ったように、彼らはイエス様の言葉をしっかりと受け止められなかったのではないでしょうか。

 でも今日の聖書を読む限り、弟子たちはやっぱりよく分かっていなかったようです。というのも道すがら、彼らはその重苦しい空気の中、とんでもないことを議論していたからです。「誰が一番偉いのか」と。「一番偉い」、つまり優劣をつけるのです。誰が上で誰が下か。誰が神さまに一番近くて、誰が遠いのか。人よりも抜きん出たい。他の人よりも上に立ちたい。そういう思いを持ったことがある人は、きっとたくさんおられると思います。テストの点が高ければうれしいし、みんなの見ている前でほめられたら心地いいわけです。

 誰が一番偉いのか、そのような議論は、イエス様の好むものではないことを、弟子たちはどうやら知っていたようです。彼らはイエス様から、「途中で何を議論していたのか」と尋ねられたときに、黙っていました。そのような議論はイエス様の前ではするべきではない。でも気になってしょうがない。そういうことなのでしょう。黙り込む弟子たちに対して言われた言葉が、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というものでした。イエス様はよく、このような、ちょっと考えないとよくわからない言葉を言われます。

 すいぶん前の話です。わたしがまだ菰野聖十字の家で働いていたとき、信徒の立場で月一度、菰野聖マリア教会の礼拝奉仕をしていたのですが、機会があって京都教区の奉仕者研修に参加したことがありました。いろんな教会から参加者が集められ、いろんなことを学んでいく、良い機会でした。

 ただ腑に落ちないこともありました。その一つがこんなことです。ある教役者が、こんな風に言いました。「みんなで一緒にお祈りするときは、司式者は誰よりも早く唱えないといけない。そうしないと恰好悪い」。それを聞いた瞬間、はてなマークがわたしの頭の上を飛び交いました。そして意見を言いました。

 そこには、言わずにはおられない理由がありました。当時わたしが奉仕をしていた菰野聖マリア教会ですが、高齢者と身体障害者の施設の中にある教会です。今は少なくなりましたが、そのころは毎週30名ほどの方が礼拝に来られていました。

 そのうち半数はご自分の足で歩いて礼拝堂に来られます。残りの半数の方は、車いすに乗ってこられていました。電動の車いすもあれば、職員に連れられて来る方もおられました。式文や聖歌集も用意されていました。しかしそれを使うことができない人もおられる。自分でページをめくることができない人もいる。そのような礼拝でした。

 その礼拝の中では、通常は2曲、月一回の聖餐式では3曲の聖歌が用いられていました。そして退堂の曲はいつも決まっていました。「いつくしみ深き」、その歌が毎週必ず最後に流れていました。なぜ毎週、同じ曲だったのでしょうか。決めるのが面倒くさかったからでしょうか。オルガニストに配慮してでしょうか。どちらも違います。みんなで歌いたいからです。式文を読める人もそうでない人も、思うように声が出せる人もそうでない人も、口ずさむことができる。賛美することができる。そのために毎週同じ歌が使われていました。

 礼拝ですから、一緒にお祈りする場面が出てきます。主の祈り、使徒信経、ニケヤ信経など。いずれのお祈りも、ゆっくりなんです。みんな一番ゆっくりな人に合わせている。それは式文を見せ合ったり、ページをめくってあげたり、誕生日を喜び合ったりといった、すべての場面に共通しているんですね。一緒に礼拝しているのです。誰をも排除することなく、共に祈っているのです。

 ですからわたしは司式の中で、先に先に追い立てるような祈りができなくなってしまったのです。その菰野での礼拝の経験が、わたしの信仰の土台であるから、「司式者は誰よりも早く唱えないといけない。そうしないと恰好悪い」というその言葉は違うと感じたのです。

 しかし、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というイエス様の言葉は、司式のやり方をこうしなさいということではありません。でも「すべての人の後」ということを考えるときに、今言った菰野での出来事は十分ヒントを与えてくれると思います。

 たとえば何かを求めて競争するとき、天国のカギを求めるのか、一番福を求めるのか知りませんけれども、みんなで一斉にスタートしたとします。どんどんみんな行ってしまいます。自分も駆け出したいところです。でも「すべての人の後になれ」とイエス様は言われるのです。大勢の人たちが駆け出した後に、その場に残っている人たちがいます。うまく走れない人、小さな子どもを抱えた人、いく方向が分からない人。「さあ、走れ!」という声が聞こえない人、その声を無視する人。暗闇の中にいる人。

 弟子たちが求めた「偉い人」は、先頭に立ってみんなを引っ張り、いち早くゴールする人でしょう。でもイエス様は、そのような人になってはならないと言われるんです。みんなの最後に回ったときに、進もうにも進めない、たくさんの人の姿に気づかされるのです。

 その人たちと共に歩みなさい。それがイエス様が弟子たちに語られた、そしてわたしたちに伝えられたメッセージなのです。その人たちに仕え、一緒に歩んでいくときに、わたしたちは「先の者」と呼ばれることになります。なぜなら、そこにはイエス様もおられるからです。イエス様がこの世に遣わされた目的、それは神さまが愛されたわたしたち人間が、一人も滅びることなく救われることです。そのためにイエス様は来られました。だからイエス様は先頭に立つのではなく、疲れた人たちの肩を抱き、歩けない人たちを背負いながら進んでいかれます。

 わたしたちもそのみ業に参与していきましょう。イエス様は最後に、小さな子どもを抱きかかえられました。聖書の時代、子どもは人の数に加えられず、また人びとから見たら本当に小さな存在、というよりもどうでもよい存在として扱われていました。イエス様はその子どもを、抱きかかえるのです。わたしたちにとって、目にも入らないほどの小さな存在とは、どういう人たちでしょうか。普段の生活で気にもかけない、そんな人たちはいないでしょうか。

 その人たちと共に生きることをわたしたちは願い、求めていきたいと思います。そこにはイエス様が、共にいてくださいます。