2025年6月8日<聖霊降臨日>説教

「与えられた聖霊」

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 ヨハネによる福音書20章19~23節

 聖霊降臨日、おめでとうございます。今日は使徒言行録2章1節から11節が読まれました。そこには弟子たちの上に炎のような舌が現れてとどまったという記述がありました。そしてそこに集まっていたのは、あらゆる国から帰って来たユダヤ人だったそうです。彼らはそこで、弟子たちが聖霊の語らせるままに、いろいろな国の言葉で話すのを聞きます。そしてみな、自分たちのそれぞれ故郷の言葉が語られていることに驚かされます。

 言葉について、旧約聖書には一つの物語がありました。それは、バベルの塔の物語です。昔、レンガやアスファルトを使えるようになった人々は、自分たちは神さまをも超えることができると思うようになってしまいました。そこで彼らは、天に届く塔を作ろうと考えたわけです。そして神さまを見下そうとした。それを見て悲しんだ神さまは、その人たちの言葉をバラバラにします。すると彼らは協力して塔を建てることができなくなり、世界中に散らばっていったという物語です。その言葉が、また一つになった。今日の使徒言行録の物語は、一見するとそのようにも思えます。しかしよく読んでみると、違うんですね。弟子たちは共通する言葉を話したわけではないのです。それぞれの言葉、つまりそれ自体はバラバラのままだったのです。

 先週の福音書から、「一つになる」というメッセージが語られてきました。しかし先週も語ったように、ぶどうの木に連なるぶどうの枝はそれぞれ違う方向を向きながら育っていくように、わたしたちは神さまにつながって一つになっているということです。今日の場面も、まさしくそうだと思うのです。弟子たちは集まり、聖霊に満たされます。しかし彼らはみな、同じ思想や同じ考え方、同じ方向性を持ち続けたわけではなかったのです。それどころか、いろんな場面で意見を戦わせ、違いを認め合いながら、その中で福音を伝えていった。それがこの聖霊降臨後の出来事なのです。

 今日の使徒書、コリントの信徒への手紙一12章4~13節には、まさにそのことが書かれています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」確かにそうだと思います。わたしたちは一人として、同じ人間はいません。それぞれ与えられた賜物を生かし、務め、働いているわけです。聖霊はわたしたちに、同じ言葉を語るように導かれたわけではありません。それぞれに与えられた賜物を生かし、歩んでいくことが求められているのです。

 しかし残念なことに、わたしたちは「同じ」であることに安心感を覚えます。自分が相手に合わせて、同じになろうとする、これは別に問題はないと思います。しかし、自分に合わせなさい、あなたもこうしなさい、そうわたしたちはついつい言ってしまうんですね。

 たとえば今日の福音書で、イエス様は弟子たちにこう言われます。「あなたがたに平和があるように」と。さてわたしたち、この「平和」という言葉をどのように捉えるでしょうか。戦争の反対語でしょうか。争いのない状態でしょうか。

 聖書のいう平和、特に「主の平和」というものは、わたしたちが考えるものとは少し違うのかもしれません。主の平和、それは神さまが共にいることで感じることができる平安、心の波風が収まり、安らぎを感じることができる、そのような状態です。

 しかし今の世界の平和は、自分が神となり、自分の安らぎのために、自分と違うものを排除する。自分が正義だから、みんな自分に合わせたらいい。そうできなかったら、ここから出て行くといい。それがわたしたちの求める平和であれば、こんなに悲しいことはありません。「わたしはこの言葉を語る。この言葉が理解できる人だけ、ここにいなさい」、そういうことを神さまは求められたのでしょうか。

 決してそうではありません。神さまは、様々な違いがあり、様々なデコボコがあり、いろいろな方向に向かっている一人ひとりを大切にされたのです。誰一人、完全な人はいません。すべてにおいて正しい人など、誰一人としていないのです。

 今日、奉献のときに聖歌540番を歌います。この歌はアメージンググレースという歌です。とても有名な曲ですので、ご存知の方も多いと思います。実はこの歌、今日礼拝の後で逝去者記念礼拝をおこなうガラシャ山本允子さんがエンディングノートに書かれていた曲でもあります。このアメージンググレースの作詞者は、ジョン・ニュートンというイギリス人の牧師です。彼の母親は敬虔なクリスチャンでしたが、彼女はニュートンが7歳のときに亡くなってしまいます。彼は成長し、船乗りになります。そしていくつかの商船を渡り歩くうちに、奴隷船に行きつきます。いわゆる「黒人奴隷」を売り渡す、そのような商売に携わっていくのです。みなさんだったら、黒人奴隷を売買して富を得る、そのことが良いことか悪いことか、判断できると思います。

 さて、ニュートンが22歳になったころです。彼の乗った船が嵐にあい、転覆しそうになります。彼は必死で祈ったそうです。それは母親の死後、初めて心から祈った祈りだったそうです。奇跡的に命を取り留めた彼は、しかしそれからも5年間、奴隷船に乗り続けました。それから30歳になって彼は牧師になり、47歳のときに作詞したのがアメージンググレースです。この歌の中で彼は、奴隷貿易に携わっていたことへの後悔と、しかしそのようなことがあったにも関わらず、赦してくださった神さまの大いなる恵みを歌っています。

 わたしたちは、その彼の歌を聞いて、心が動かされます。それは何故なのでしょうか。わたしたちもまた、おろかな一人ひとりであるのに、神さまはそんなわたしたちをも、招き入れてくれるからです。「そんな言葉わからない、理解できないよ」というわたしたちのために聖霊を与えられ、一人ひとりに語りかけてくださるのです。

 使徒言行録の炎のような舌、面白いなあと思います。栄光が部屋全体を照らした、というのではないのです。一人ひとりの上に、炎のような舌、聖霊がとどまったのです。聖霊が一人ひとりに与えられる、息が一人ひとりに吹きかけられる。神さまが、わたしたち一人ひとりに関わってくださるのです。違ったままのわたしたちを受け入れ、欠けが多いわたしたちを受け入れ、そして聖霊を与え歩ませてくださる。その中にこそ、主の平和が訪れます。自分の弱さを知り、自分とは違う人と共に歩むとき、神さまの恵みは驚くほどに豊かに与えられるのです。

 聖霊を感じましょう。今日、この赤色の祭色の中で、炎のような舌を心に受け入れ、歩んでいくことができればと思います。そしてこの恵みを、たくさんの人と分かち合うことができますように。