2020年2月2日〈被献日〉説教

あなたの救いを見た
 ──シメオンの賛歌
 ルカ2:22-40

  司祭 ヨハネ 井田 泉
   奈良基督教会にて

 今日は教会の暦で「被献日」、生後約40日のイエスさまが両親によってエルサレムの神殿に連れて行かれて、神さまにささげられたことを記念する日です。

 そのエルサレムにシメオンという人がいました。相当な高齢でした。彼についてはこのように言われていました。

「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」ルカ2:25

 この人は「正しい」人でした。神さまの前にまっすぐに生きてきた人です。
 「信仰があつく」 自分の損得や世間の評価などではなく、祈りつつ神さまを中心に生きてきた人です。
 そして「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた人だと言われています。イスラエルとは言い換えると「神の民」。長い年月先祖代代、神に導かれ、神を頼りとして生きてきた人々の集団です。その「イスラエルの慰められるのを待ち望」んできた。自分だけが慰められることを願うのではなく、神の民全体が慰められるのを願い、待ち望んできた。このように書かれているのは、神の民イスラエル全体が長い間苦しみ、神に背き、傷つき、そして神の赦しと癒しを経験できずにきた、ということを現しています。

 シメオン自身は正しく、信仰があつく、その意味では神さまに近かったはずの人です。けれども彼は、自分ひとりが救われ慰められることを求めなかった。神の民の痛みは自分の痛みであり、神の民の病は自分の病なのです。彼は神の民全体が救われ、慰められることを願い求めてきたのです。

 「神の民」という言葉を「教会」と言い換えてもいいかもしれません。わたしたちは自分のために痛んだり、自分のために神の慰めを祈ったりするでしょうか。すると思いますし、すべきです。それではこの教会全体のために痛んだり、神の慰めを求めて祈ってきたでしょうか。日本の教会全体のためにはどうでしょうか。だんだん頼りなくなってくる気がします。わたしたちの救い主イエス・キリストは、わたしの救い主であるとともに教会全体の救い主なのですから、これまでよりも教会全体のために祈ることを本気でしたいと思います。

 ところで「シメオン」とは一説によると「耳を傾けて聴く」「(神に)聴き従う」という意味なのだそうです。同じ「シメオン」という名前を持っていてもまったくそうではない人もいるのですが、今日のシメオンは名前にぴったりの人のようです。

 このシメオンが今日、何か心に強く促されるものがあって、エルサレムの神殿に行きました。すると、幼子を抱いた若い夫婦に出会いました。その幼子を見た瞬間、シメオンはなぜか畏れと清らかな思いに満たされました。その幼子のうちに、神さまの愛が満ちているのを感じました。彼は幼子を腕に抱きました。彼は自分が、70年、80年、あるいはもっとかもしれませんが、この日のために生きてきたことを悟りました。この幼子から、自分を慰める慰めの光が満ちてくるのです。いや、自分にとどまる光ではありません。神の民イスラエルを慰める光。さらに外国の人、すべての人を照らし慰める光が満ちてきます。

 彼の口から、心から、思いと言葉が溢れてきました。

「2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31 これは万民のために整えてくださった救いで、
32 異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。』」ルカ2:28-32

 今日このシメオンと幼子イエスとの出会いの物語に触れたわたしたちは、はっきり願いを持ちたい。このシメオンと同じイエスとの出会いの喜びを味わいたい。同じ慰めの光を受けたい、という願いです。

 そのためにわたしたちに必要なことが、わたしたちにも神さまが用意していてくださることが、今日の箇所に記されていました。それは先に一言で言えば、聖霊の働きということです。3回もここに記されています。

「25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」
「26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」
「27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」

 聖霊が彼にとどまっていたので、シメオンは失望せず諦めず、イスラエルの慰められるのを待ち続けることができたのです。聖霊のお告げを受けていたので、必ず救い主にお会いできると信じて、その日を待っていたのです。聖霊が導いてくださったので、シメオンは神殿でイエスにお会いできたのです。
 もし聖霊の働きがなければ、彼は早くに失望し、早くに待つことをやめ、イエスさまにお会いすることもなかったでしょう。
 わたしたちにも希望を持たせ、自分だけではなく皆のことを考えさせ、そしてイエスさまにわたしたちを導いてはっきりと会わせてくださるのは、聖霊です。

 わたしの反省は、この奈良での8年の間に、何度か思ったことはあるのに、聖霊について繰り返し強調して語らずに来てしまった、ということです。聖霊が働かなければ聖書はただの活字の組み合わさった本です。聖霊が働かなければ、礼拝は習慣化した命のない宗教的儀式です。聖霊が働いてくださらなければ、聖餐は受けた瞬間だけ何かを感じても、すぐに受けたことの尊さを忘れる込み入ったしきたりです。
 しかし聖霊が働いてくださるなら、聖書は立ち上がってくる。わたしたちを生涯生かす命の書となります。聖霊が働いてくださるなら、礼拝は毎回新しい神との出会いの場となります。聖霊が働いてくださるなら、聖餐は尊いキリストの愛の命がわたしの体と心と生活に浸透して1週間を支える慰め、力となるのです。聖霊は、神が生きておられる方であることを、イエス・キリストがまことの愛と力に満ちた救い主であることを、わたしたちの心に教えてくださるのです。

 そのためにわたしは毎週説教をし、聖餐式を行っているのです。
 礼拝の始まる前、わたしはほとんど皆さんとは話しません。なぜか。聖霊を求めて祈っているからです。ここに来た人が、だれひとり神さまの愛と救いに触れることなく帰ることがないように祈っているのです。それは司祭だけがすることではありません。聖餐式は、イエス・キリストが司祭だけにではなく、教会全体に託されたものですから、皆さんも一緒に準備の時から、聖霊を求める祈りを共にしてほしいのです。

 祈ります。
 神さま、幼子イエスさまに出会って「あなたの救いを見た」と喜び歌ったシメオンの喜びと慰めを、わたしたちにも経験させてください。そのためにわたしたちにも聖霊を与えてください。 シメオンにとどまっていた聖霊を、わたしたちのうちにもとどまらせてください。聖霊によってわたしたちにも、神さまの救いと希望と約束を聞かせてください。聖霊の導きによってわたしたちを主イエスとの生きた出会いに至らせてください。聖霊なしの枯渇した信仰ではなく、聖霊による生きた喜びの信仰をお与えください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン