「見ないのに信じる人」
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ヨハネによる福音書20章19~31節
今日の福音書にある物語は、二つの場面からなっています。最初の物語は「その日、すなわち週の初めの日の夕方」に起こったこと。そしてもう一つは「八日ののち」にトマスに起こった出来事です。
最初の「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とは復活日の夕方のことです。復活日の夕方、わたしたちは何をしていたでしょうか。例年の復活日であれば、夕方には祝会の余韻を楽しみ、「今日は楽しかったね」とそれぞれの家に帰っていったことでしょう。しかし今年は違います。コロナウイルスの影響で祝会もなければイースターエッグもない。それどころか復活日の礼拝に来ることのできなかった方も多くおられます。自分の元には復活のイエス様は来てくれたのだろうか。恐れや不安を覚える中、今日の福音書が読まれたわけです。
復活日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたと書かれています。「ユダヤ人を恐れて」、その言葉に、今のわたしたちはどのような思いを重ね合わせるのでしょうか。彼ら弟子たちが恐れていたのは、ユダヤ人たちが自分たちをつかまえ、処刑してしまうことだったでしょう。今、捕まったら、何をされるか分かったものではない。だから部屋に隠れ、ブルブルと震えていた。復活日の夕方、わたしたちはどうだったでしょうか。喜びがわたしたちを覆っていたでしょうか。喜びどころか不安や悲しみ、葛藤、怒り、恐れ、罪悪感、様々な感情に包まれていたのではないでしょうか。
そして弟子たちは、ユダヤ人だけを恐れていたのではなかったのかもしれません。イエス様を見捨てて逃げ出したこと、イエス様のことを知らないと否定したこと、イエス様の体が墓からなくなったのにも関わらず、さがしに行くことすらできない自分たちの弱さに絶望し、身を寄せ合い、家中の戸に鍵をかけて震えている弟子たちの姿は今、見えない恐怖におびえているわたしたちの姿と重なり合う気がします。
しかしその中に、イエス様は来てくださるのです。鍵を掛けて閉じこもっている弟子たちのところにも、たった二人で祈っているこの礼拝堂にも、そしていろんな媒介を通して伝えられているこのメッセージを心に受け止めている皆さんのところにも、イエス様は来てくださるのです。
イエス様は来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。鍵がかかっていようが、扉を閉めていようが、門を閉ざしていようが、そんなことは全く関係ないのです。今、それぞれの場所で祈っているそのところに、イエス様は両手を広げて来てくださいます。 どんなに荒れ狂う嵐が来ても、心がどよめき、立っていられないほどの恐怖にさいなまれようとも、「大丈夫、わたしがいる」。復活の日の夕方、恐れおののく弟子たちの前に現れた復活のイエス様。そのイエス様は今、まさにわたしたちの間にも、同じように来てくださっているのです。そのことを信じていきましょう。