2022年9月11日<聖霊降臨後第14主日(特定19)>説教

「さがす方」

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 ルカによる福音書15章1~10節

 今日の箇所には、二つのたとえ話が載せられています。それぞれの最後の部分には、「悔い改める一人の罪人」、「一人の罪人が悔い改めれば」という言葉があります。しかしこれを聞いて、違和感を覚えた方はおられないでしょうか。

 今日の箇所のうち、たとえば迷い出た羊のお話しを子どもたちにするときには、いろいろと脚色したりします。たとえばこんな風にです。

 「この羊さんはねえ、道に生えているお花のことやら、川の向こうの岩場の先とか、虹の向こうには何があるんだろうとか、とにかくいろんなことを知りたいと思っていたんだ。でも羊飼いさんはいっつも、『危ない所に行ってはいけないよ。一人になったらダメだよ』って言い聞かせていた。でもある日、羊飼いさんがお昼寝しているスキに、その羊さんは我慢できなくなって、飛び出しちゃったんだ」。何だかわたしたちのことのようですね。

 「羊さん、いろんなお花やかわった岩を見るたびに、どんどん、どんどんうれしくなって、もっと、もっと向こうへと行ってしまった。そして川の中に生えているきれいなお花を取ろうとした瞬間、スッテ~ン。水の中に落ちてしまいました。羊さん、なんとかもがいて岸にたどりつきましたが、だいぶ流されてしまっていました。しかも体はビショビショで、凍えるようです。お腹も空きました。けれどもみんなでいつも行っていた草むらがどこにあるのか、全然わかりません。あ~あ、こんなことなら羊飼いさんの言うこと、ちゃんと聞いていればよかったなあ。もう一度、みんなのところに戻りたいなあ。羊さんは悲しくなってきました。そして涙を流しながら、神さまにお祈りするのでした。『神さま、もし僕がまた、みんなのところに戻ることができたら、絶対いい子でいます。ちゃんと言うことを聞きます』。そこに羊飼いさんがあらわれ、羊さんを抱きかかえ、羊さんは無事にみんなの元に戻ることができました。めでたしめでたし」。

 きっとこういうストーリーだと、子どもたちの心にも「ストン」と落ちるのだと思います。そして子どもたちは思うのです。これからは神さまの良い子でいようって。またこう思うのです。これからは先生の言うこともちゃんと聞こうって。こんな風に、羊を主人公として、自分たちを羊の姿と重ね合わせる。たとえば羊が今いる場所から逃げ出した。そのことは神さまの元から離れることとリンクするわけです。でも離れている中で、「やっぱり神さまの元に帰ろう」、そう思う。これこそが「悔い改め」なのだとなります。そう考えると、この物語も理解しやすいのです。

 ところが、なんです。ここからがとても大事なことなんですが、今日の聖書を何度読んでみても、羊のことはこんなにもいろいろと書かれていない。好奇心旺盛だとか、羊飼いの命令が嫌だったとか、自分勝手だとか、何一つ書かれていないんです。またいなくなった後も、羊が後悔したとも書かれていないし、ましてや、これからはちゃんと羊飼いの言うことを聞こうとした、なんてことも一言も書かれていない。つまりこのたとえ話は、羊が主役の物語ではないのです。

 このことは、もう一つの物語にも同じようにみられます。10枚の銀貨のうち、1枚が見失われます。「僕はこの財布の中なんか、窮屈で嫌だ~」なんて思うでしょうか。

 ではこれらの物語の主人公は誰なのでしょう。前半の話では、「100匹の羊を持っている人」です。後半の話では、「ドラクメ銀貨を10枚持っている女性」です。つまりこのたとえ話が一番伝えたかったことは、「その人たちは見失ったものを、根気強く探し続ける」ということと、「それが見つかったときには、大きな喜びがある」ということなのです。

 そもそもこのたとえ話をイエス様がなさったきっかけは、何だったのでしょうか。聖書にはこうあります。「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」と。これが、このたとえ話のきっかけです。彼らの不平に対して、イエス様は「見失った人が無くしたものを見い出すたとえ」を語られたのです。この見失い、見い出す人とは、他ならぬ神さまなのです。

 わたしたちはこのようなたとえ話を読むときに、どうしても「悔い改め」をメインに読んでしまいます。それはそれでいいのですが、「わたしがどうするべきか」にあまりにも重心を置くと、神さまの大いなる恵みが薄れてしまうようにも感じます。

 イエス様は今日の箇所の中で、「悔い改め」という言葉を出されました。しかし物語の中の羊や銀貨は、わたしたちがイメージする「悔い改め」はおこなっていないように思います。道徳的に正しい者となる、倫理的に間違ったことをしない、神さまの方に向き直る。そのようなことを、羊も、銀貨もしていないわけです。

 ということは、イエス様はここで「悔い改め」の一つの形、それもわたしたちが思っている「悔い改め」とは違う形を示されているように思うのです。それは、何よりもまず、神さまがわたしたち一人ひとりをさがし続けてくれているということなのです。

 イエス様は、罪人たちを迎えて食事まで一緒にしているということで、ファリサイ派の人々や律法学者から批判を受けました。罪人と食事をする、それは当時の律法に忠実なユダヤ人たちにとって、あってはならないことでした。何よりも罪人という汚れた人と関わると、その人自身も汚れると思われていました。だから汚れたとされた人たちは、心を入れ替え、ささげ物をし、祭司に罪を赦される必要があったのです。このように、自分から何か行動を起すことで、「悔い改め」がなされるのです。そしてわたしたちも同じように思うのではないでしょうか。自分の力で変わらなければ、神さまの元には行くことができない。悔い改めなければ!と。

 しかしイエス様は、罪人のままの人たちの元に行かれました。また神さまは、ただ迷っている羊の元に行き、見失ってしまった銀貨を必死になって探す方だと語られました。そうです。わたしたち一人ひとりのことを、神さまは懸命に見い出そうとされているのです。わたしたちは、その差し出された手をただ握ればいい。わたしたちに向けて掛けられた言葉に、ただ応じればいい。そして疲れ果て、倒れそうになっているわたしたちの身体を抱きかかえる神さまに、すべてをお委ねすればよいのです。

 罪人であるわたしたちの元に来られ、そのままの姿でわたしたちを受け入れようとする神さまの招きに、ただ応じる。それがここでイエス様がたとえを通して語られている「悔い改め」なのです。そしてわたしたちが神さまの招きを受け入れたときに、天では大きな喜びがあるというのです。とても素晴らしいことだと思います。うれしいです。神さまがそのようにわたしたちのことを思ってくださっているということ、心から感謝したいと思います。