「はっきり言っておく」
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ヨハネによる福音書3章1~17節
今日の特祷にこのような言葉がありました。「全能の神よ、わたしたちは自らを助ける力のないことを、あなたは知っておられます」。わたしたちは自分の力で生きていくことができない、そういうことだと思います。ではまず今日は、旧約聖書から見ていきたいと思います。
旧約聖書は、創世記12章1節から8節が読まれました。ここに出てくるのはアブラム、のちにアブラハムと呼ばれる人物です。彼は神さまにこう告げられるのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。
「そうか、神さまが呼ばれたのか。じゃあ、行かなきゃ」、そう思いますよね。新約聖書にあるイエス様が漁師を弟子にした場面でも、ペトロたちは舟を捨ててすぐに従いました。聖書にはそのような「召命物語」というのが何回も出てきます。しかしこの、アブラムの物語には、それらと違う大きな特徴があります。
それはアブラムが大変高齢になって、神さまからの召命を受けたということです。彼はそのとき、75歳だったというのです。75歳というと、牧師も含め、多くの企業では定年を超えています。奈良基督教会でも教会委員はお役御免です。でもその年に、アブラムは呼ばれたのです。「さあ、わたしが示す地に行きなさい」と。
さらに当時、彼には子どもがいませんでした。この時代に子どもがいないということは、神さまに祝福されていないことだと考えられていました。だから「あなたを大いなる国民にし」という約束も、「そんなことどうやってできるの?」と口答えしたくなる内容でした。
しかしそのとき、アブラムは信じました。神さまの言葉を信じ、神さまに従ったのです。使徒書では、ローマの信徒への手紙4章1節から5節が読まれています。ローマの信徒への手紙はパウロという人物が書いた手紙です。彼のキリスト教理解はしばしば、「信仰義認」と呼ばれます。その根拠が、今日の使徒書に書かれています。
パウロは先ほどのアブラム、のちのアブラハムのことをこう書きます。「もし、彼がおこないによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」と。
そして続けてこう書くのです。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります」。パウロはこのように、アブラハムの出来事を捉えるのです。
つまりアブラハムに何か秀でたところがあったわけでも、特別な能力があったわけでもない。神さまの目に立派なおこないを続けていたわけでもない。神さまの呼びかけに対して、ただ「信じた」。それがアブラハムの正しさだというのです。
わたしたちにとって大切なことは、信じることだけ。それだけで神さまの前に正しい者とされる。その考え方は当時のユダヤ教にとっては、ありえないものでした。ファリサイ派や律法学者といった人たちは、律法を忠実に守り、自らの力で正しい者となることを目指していました。
ただ彼らのおこないは、人目につくところだけでのことだったり、そのおこないができない人を排除するためのものであったり、神さまの思いとはかけ離れたところにありました。そのことをイエス様は何度も指摘し、ファリサイ派と対立していったのです。
しかし今日の福音書に出てくるニコデモという人物は、ファリサイ派ではありましたが、他のファリサイ派とはちょっと違ったようです。彼は夜、イエス様に会いに行きます。夜ということは、人目を避けて行動したということです。
彼の心の中には、葛藤があったようです。ファリサイ派として律法に忠実に生きてきたつもりでも、何かが違う。自分の心の中は、自分が一番知っています。言葉とおこないの罪はどうにかなっても、思いによっていくらでも罪を犯してしまうのです。
また貧しい人や病気の人など、自分たちが「罪人」として排除している人たちに、イエス様が寄り添い、食事まで一緒にしている姿を見て、何かを感じたのかもしれません。神さまが求める世界はそのようなものではないのか。神の国とはみんなが正しく生きる世界ではないのか。そのことをニコデモは、すがる思いでイエス様を訪ねたのです。
イエス様がニコデモに対して返した言葉はこうでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そして「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。難しい言葉です。ニコデモは律法に忠実な生き方に行き詰まり、新たな「生き方」を聞こうとしました。「生きるヒント」を求めたのです。
しかしイエス様は、「新たに生まれなさい」と、今の生き方にまったく背を向け、180度心を転換しなさいというのです。そして続けて語られたのが「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」という言葉なのです。
おこないによって義とされるのならば、わたしたちは誰一人として正しい者ではありえません。ニコデモがそうであったように、欠けている自分、弱い自分を取り繕いながら、表面上だけ清く生きようとする。我慢をしながら、見栄を張ってしまうのです。
でも、神さまがイエス様を遣わされたのは、わたしたちを裁くためではないのです。我慢させながら、「こういうところができていないじゃないか」と厳しく指摘するためではないのです。
神さまがイエス様を遣わされたのは、わたしたち人間を裁くためではなく、イエス様によって、わたしたち人間が救われるためです。その愛のゆえに、完全ではないわたしたちを受け入れるために、イエス様は十字架への道を歩んでいかれるのです。
だからこの大斎の期間に気づきたいこと、それは自分の足りなさがあるにもかかわらず、愛を注いでくださる方がいるということ、わたしたちがたびたび神さまに背き、自分勝手に生きている存在でありながら、神さまはその手を離すことなく導いてくださるということ、そのことなのです。
この大斎節、たくさん感謝しましょう。恵みを与え、そばにいて下さる方がいるということを喜びましょう。そしてわたしたちを生かしてくれるその愛を、多くの人たちと分かち合っていけたらと思います。




