「平和と分裂」
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ルカによる福音書12章49~56節
この八月、わたしたちは特に「平和」ということに心を向けながら日々を過ごしているように思います。特に今年は80年の節目の年となっています。しかし今も、世界の至るところで争いは続き、命が粗末にされています。格差社会や富の集中は、いわゆる貧しい国だけではなく、日本であっても貧困にあえぐ人たちがたくさんいる、そんな状況を作り上げています。ではいったい、「平和」とは何なのでしょうか。争いのない世界、それを一般的には平和と呼ぶのでしょう。しかし聖書が語る平和は、神さまが共にいることで与えられる平安と考えることもできます。
けれども今日の福音書のイエス様の言葉を聞くと、大きな不安に襲われます。その言葉とは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」というものです。
平和ではなく分裂、その言葉には大きなインパクトがあります。平和と分裂、どちらの方がいいかと聞かれたときに、わたしたちは大抵、「平和」を選ぶと思います。何も波風が立たず、安らかな世界。そのような世界があればとてもうれしいと思う。それに対して分裂はしんどい。そう思うのではないでしょうか。しかしイエス様は、「分裂をもたらす」とはっきり言われています。その言葉にはどんな意味があるのでしょうか。そもそも「分裂」とは、それほどネガティブな言葉なのでしょうか。
分裂という言葉を、ちょっと調べてみました。様々な文脈の中でこの言葉は用いられますが、それぞれ少しずつ違う意味があるようです。たとえば企業などで使われると、「企業・団体等が運営方針・後継者争い・労働争議等により敵対的に独立すること」となります。わたしたちが個人的に分かれるのも、このイメージに近いのでしょうか。そして心理学の面から分裂という言葉を説明するときには、このようになるそうです。「人の思考において、自己と他者の肯定的特質と否定的特質の両方を認識して現実的な全体として捉えることの失敗」。なかなか難しい言葉ですが、物事を全体的に見たときに、それを現実として捉えることができない、そういうことなのかなとも思います。
80年前の日本で、一体何が起こっていたのか。徹底的になされていたのは、思想の統一なのだろうと思います。日本はどういう国なのか、誰が主権を持っているのか、日本を取り巻く諸外国はどういう国なのか、そして日本に生まれた若者は何のために生きるのか。 人々の自由な考え方が抑えつけられ、違う意見を言う人が現われたら「非国民」だと非難し、排除する。一見、みんながまとまった状況にも見えますが、それは自分たちだけのことです。現に80年経った今だったら言えるわけです。何でみんな同じ考え方だったんだろう、どうして誰も「戦争反対」と声をあげなかったのだろうと。実際には、そういう声もあったでしょう。でもその小さな声は押さえつけられ、大きな声にかき消され、ないものとされていきました。そして同じ方向を向く人たちによって、自分たちだけの正義が確立され、自分たちだけの平和が築き上げられたのです。
わたしたちは、そうであってはいけないです。イエス様の弟子たちにはいろんな考え方、いろんな背景をもった人たちがいました。漁師や徴税人、そして熱心党という武力行使もいとわないグループに属する人も一緒に歩んでいました。決して一枚岩ではない、そんな人たちがイエス様の周りにいたのです。でもイエス様は、それをよしとされたのではないでしょうか。
わたしたち聖公会を言い表す言葉で、「ビアメディア」というものがあります。それは神さまのみ声に聞きながら、これといった正解を決めてしまうことはせずにずっと考え続けながら歩んでいく、そういうことです。わたしたちは聖書を大切にしていますが、「これこそが真実だ」ということを決めてしまわずに、様々なことを議論しながら歩んでいきます。例えば女性司祭のこともそうです。ぶどうジュースのことだってそうです。いろんな立場の人がいます。社会状況も変わっていきます。それらのことを踏まえ、しっかり議論して自分たちの進む方向を考えていく。聖公会が大切にしているもの、それは聖書のほかに、伝統と理性です。これまでの伝統も大事にし、理性をもってみんなで話し合い、判断していく、そのことが本当に必要なのです。
ところがこれは個人的に思うことなのですが、特に政治的なことについて、何か考え方を統一させようというか、そういう動きを教会の中に感じています。例えば日本国憲法について、「わたしたち日本聖公会は「憲法改正」に反対します」という文書を公表し、総理大臣に送ったりしています。わたしはこの「わたしたち」という言葉に違和感を覚えてしまいます。わたしたちの中にはいろんな立場、考え方の人がいます。聖公会は本来、その人たちの声に耳を傾け、一緒に考えて受け入れていく集まりだったはずです。一言で「改憲」といっても、そこには様々な思いや考え方があるのに、「わたしたち」とひとくくりにして他の考え方は認めない。数年前まで憲法記念日のときに貼られるポスターには、こんな文言も書かれていました。日本聖公会に連なるすべての兄弟姉妹のみなさんが、憲法第九条の改憲に反対し、「平和を実現する人々の幸い」に与る者とされますように祈ります。「祈りまで持ち出すのか」と驚いた記憶があります。さすがにこの文言は最近、書かれないようになっていますが、でもどこかで自分たちの考え方を統一し、「わたしたち」という中だけで平和に歩んでいこうという思いが透けてみえるのです。
果たしてイエス様は、そのようなことを望まれたのでしょうか。イエス様は弟子たちに対して受難予告を三度もしました。その度に弟子たちは狼狽し、様々な意見を戦わせていったことでしょう。さらにイエス様は十字架につけられ、三日目に復活されました。その神さまのご計画を、弟子たちがすぐに理解して、思いを一つにできたとは思えません。彼らはそれぞれの思いをお互いにぶつけ、そして福音を伝えていったのです。
わたしたちもまた、対立し、分かれています。いろんな違いがあるし、思いも様々です。でもそれでいいのです。一見するとそれは、分裂に思えるかもしれません。しかしその真ん中にイエス様がいる限り、わたしたちは違っていても一つなのです。そしてその分裂の中にこそ、イエス様はおられます。分裂といっても、そのまま違う方向に行ってしまったらいい、そういうことではありません。お互いに聞き合い、お互いを理解し、お互いを受け入れていく。違ったままでいい。まったく同じ考えになる必要はない。大切なことはイエス様につながっていることだけです。
そして共に、「主の平和」を、そして「神の国」を目指していく。そういう教会でありたいと思います。わたしたちの歩みが神さまに祝福され、豊かな恵みが与えられますように、お祈りを続けてまいりましょう。




