2020年8月2日<聖霊降臨後第9主日>説教

「パンの奇跡」

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マタイによる福音書14章13~21節

 たった5つのパンと2匹の魚がイエス様によって祝福され、5000人の人たちを満腹させた。それはまぎれもない事実です。聖書には福音書が四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。そのすべての福音書に記されている奇跡物語は、たった一つ。この5000人の供食物語だけです。

 さらにマタイとマルコ福音書には、5000人ではなく4000人を満腹させるという奇跡物語も登場します。つまり全部で計6回も、聖書はこのような供食物語を伝えているのです。なぜでしょうか。それは人々にとってこの食事にあずかるという奇跡物語は、とても大切なものだったからです。

 人々は何度もこの物語に触れたかったし、何度も聞きたかったし、そしてたくさんの人と分かち合っていきたかった。どんなことを分かち合おうとしたのか。空腹になっても大丈夫、きっとイエス様がパンを与えてくれるに違いないということでしょうか。

 マタイによる福音書が書かれた時代、イエス様を信じる人たちは迫害されていました。毎日の食事も満足にとることができず、空腹を満たすことはありませんでした。でも大丈夫。パンはきっと増える。満腹になる。そのことを聖書は伝えたいのでしょうか。

 聖書が伝えたいこと、それはパンがマジックのように増えたということではないと思います。パンをわたしたちに与えてくださるお方がいるということです。パンが増えたということを信じるのではなく、パンを与えてくださる方を信じるのです。

 わたしたちは今日、この聖書の奇跡物語を聞いて、「よかった。これで明日からは食べ物に困らないで済む」とはならないと思います。それは決して聖書に書かれた言葉を信じていないからではなく、わたしたちにとってのパンとは何なのか、そのことに心が向かうからなのではないでしょうか。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という、荒れ野で、イエス様が石をパンに変えたらどうだという悪魔の誘惑に対して言った言葉を思い出した方もおられるでしょう。

 出エジプトのときに、40年間荒れ野をさまよう中で、神さまがマナという食べ物を与え、イスラエルの人々を約束の地まで導き続けた物語を思い起こした方もおられるでしょう。どちらも荒れ野での出来事です。

 そして今日の出来事は、人里離れた場所で起こりました。人里離れた場所、原文では荒れ野と同じ言葉が用いられています。草木は少なく、岩がゴツゴツして、乾燥している。飲み水を探すのも苦労しそうなところ。しかし町や村と違い、様々な思い煩いから離れ、静かに祈れる場所。神さまと対話する場所。それが荒れ野です。

 荒れ野に退かれたイエス様を追って、必死にすがる群衆を、イエス様は深く憐れまれました。深く憐れむ、はらわたがきつくしめつけられるほど、群衆の気持ちに共感したのです。そして群衆を養われました。

 わたしたちにとって、荒れ野とはどこですか。今この映像を見ている場所はどうでしょうか。教会の礼拝堂はどうですか。自宅の寝室。近くの喫茶店。心が揺れ動くときに、イエス様を求めていく場所。その荒れ野に、イエス様は必ず来てくださいます。

 そして今日の箇所、とても大事にしたいことがあります。それはイエス様が言った「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という言葉です。彼らがもっていたのは、わずかなものでした。5000人に対してパン5つと魚2匹。あまりにも少なすぎます。

 しかしイエス様はそれを用いられました。そして弟子たちに渡され、群衆に配るようにと命じられます。お恵みを待っている群衆の上に、パンが湧いたように降り注いだのではないのです。弟子たちが持っている物を用い、そして弟子たちに配らせた。

 わたしたちは弟子の一人かもしれません。群衆の一人かもしれません。イエス様はわたしたちの持っているわずかなものを用いられる。もし何も持たずに、神さまの憐れみをただただ乞い願うだけの状態だったとしても、それでいい。

 神さまのみ恵みに満ち溢れた宴に、ともにあずかる時間。それこそが聖餐式です。喜びにあふれ、涙を流しながらも、わたしたちは共に主の食卓にあずかっています。神さまに見い出され、用いられながら、となりの人と共に分かち合う。

 今、日本国内において、新型コロナウイルスの感染拡大が非常に深刻な状況となってきました。緊急事態宣言が出された頃よりも、日々の感染者の数は増えています。検査の数が増えたから、重症者数が少ない、そのような言葉で安心しようとしても、でも不安をぬぐいさることができない方は多くいます。

 今日も、座席の間隔はあいたままです。ホールの人数も、そこまで多くはないと思います。インターネットを通して、動画をみておられる方もおられます。説教原稿を読まれている方もおられます。どうぞ今、それぞれの場所でとなりに感じてください。共にパンを分ちあいたいと思う人を。

 たとえ離れていたとしても、思い浮かべてください。一緒に神さまの大きな愛を賛美したいと思うその人を。

 その真ん中に、必ずイエス様は来てくださいます。そして天を仰ぎ、パンを裂かれ、わたしたちに与えてくださるのです。わたしたちはその祝福されたパンによって、生かされていく。養われていきます。どんなに人と人とが距離を取り、身体的な交わりが阻害されようとも、わたしたちがいただくパンは、尽きることはないのです。

 共にこの大いなるお恵みに感謝し、ご一緒に喜びを分かち合いましょう。