「安心しなさい、わたしだ」
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マタイによる福音書14章22~33節
この箇所の直前、イエス様はたった5つのパンと2匹の魚を5000人の群衆に与えられ、満腹させました。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせ」、そのように今日の箇所は始まります。「強いて」という言葉は、とても強い言葉です。そのとききっと弟子たちは興奮していたでしょう。自分たちが持っていたわずかな糧が5000人の人を養うという驚きの光景を目の当たりにしたのです。
わたしが弟子の一人だったらきっと、いつまでもイエス様のそばを離れたくないと思ったでしょう。弟子仲間と一緒にいつまでも、そのときの様子を思い出しながら語り合っていたと思います。
ところがイエス様は、弟子たちを舟に乗せました。群衆はわたしが解散させておくから、あなたたちは先に向こう岸に行っていなさい。多分弟子たちは思ったのではないでしょうか。「イヤイヤ、わたしたちも手伝います。それよりもイエス様は、どうやって向こう岸に行かれるつもりですか」。でもイエス様は、無理やり弟子たちを舟に押し込んでしまったのです。
これまでいつも一緒に行動し、寝食も共にした。たまにイエス様が山に一人でお祈りに行くことはあったけれども、こんなに距離が離れるのは初めてのこと。不安で、不安で、しょうがなかったことでしょう。そして弟子たちの乗った舟は、逆風のために波に悩まされます。向こう岸に行こうとしても、進むことができなくなってしまいました。わたしたちにも経験があると思います。神さまはそばにおられないのか。どこに行ってしまったのだろうか。前に進もうにも、どこに行ったらいいのかわからない。前が見えない。力がわかない。
今から75年前のこの日、長崎に原子爆弾が落とされました。当時24万人いた長崎の人のうち、7万人が犠牲になったといわれます。突然命を、愛する人を、家を、すべてを失った人たち。
人類は、これまで何度も何度も問いかけてきました。戦争があるたびに。未曾有の災害に襲われるたびに。疫病がはやるたびに。神さま、あなたはいないのかと。神さま、あなたはわたしたちを見捨ててしまったのかと。なぜ。どうして。どうしてと。
しかし逆風のために波に悩まされていた弟子たちの元に、イエス様は来てくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。その優しい言葉は、わたしたちの心にもきっと届けられるのだと思います。
自分たちだけで舟をこいでいるのではない。たとえ一緒に舟に乗っていなかったとしても、イエス様は必ず見守っていてくれる。そしてわたしたちが必要なときに、必ず来てくださるのです。
弟子たちは最初イエス様を見たときに、「幽霊だ」と思いました。暗がりだったからそう思ったのかもしれませんが、よく考えてみると、ちょっと失礼な話です。でももしかするとイエス様って、わたしたちが思ったような形で来られるのではない、そういうことを伝えているのかもしれません。
劇的に、絵画に描かれているようなイエス様が、両手を広げてやってきたら、とても分かりやすい。でもイエス様は、そういう形では来られません。様々な形で、様々なやり方で、わたしたちに関わってくださる。わたしたちを支えてくださっているのです。
イエス様が来られ、逆風と波がやみ、舟が目的地まで行くことができた。これだけでも素晴らしい福音です。グッドニュースです。しかし物語は、ここまでで終わりません。ペトロが一言、言うのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と。
わたしは、こういうペトロの姿がとっても大好きです。ようやくイエス様が舟の近くまで来てくれたのに、「自分も歩かせてくれ」、どうしてそんなことを言ったのか。でもわたしは思うのですね。ペトロのこの姿勢が、わたしたちに信仰のあり方を示してくれているのではないかと。
イエス様のようになりたい。イエス様のように、自分も歩んでいきたい。わたしは以前、WWJDと書かれたキーホルダーを持っていました。WWJDとは、「What would Jesus do?」、「イエス様ならどうする?」という問いかけです。
自分が何か、困ったこと、つらいこと、悲しいことにぶつかったときに、また人との関係の中でどうしようかと迷ったときに、「こういうとき、イエス様だったらどうするだろう」と考え、行動する。ペトロのイエス様と同じように湖の上を歩きたいという思いも、イエス様に倣っていきたいという思いの中で生まれたのではないでしょうか。
そのペトロは、果たして湖をうまく歩けたでしょうか。聖書を注意して読んでみると、ちょっとだけですがペトロは湖の上を歩いていることに気づかされます。他の弟子たちが見守る中、確かにペトロは湖の上を歩いているのです。
でも彼は、すぐに沈みかけました。その理由は、こう書いてあります。「強い風に気がついて」と。ペトロが最初歩くことができていたとき、その視線はまっすぐにイエス様の方を向いていたと思います。イエス様だけを見据えて、イエス様に信頼を置き進んでいった。そのときに、ペトロは「湖の上を歩く」という普通では考えられないことができたのです。
ところが、周りをみて不安になり、沈みかけてしまう。わたしたちも一緒です。イエス様を見据えていたつもりが、そうはいかない。WWJDと心でつぶやきながら歩こうとしても、周りのいろんなことが目に入り、恐ろしくなり、震えてしまって、結果沈みそうになるのです。わたしたちの信仰生活は、実はその繰り返しなのです。
ペトロのこの行動がなかったら、わたしたちは強い信仰を持つことのできない自分に失望し、いつも目を伏せていたでしょう。しかしイエス様は、その沈みかけたペトロに対し、すぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
このときのイエス様の顔、怒っていたと思いますか。悲しそうな顔をしていたでしょうか。わたしはニコニコしていたのではないかと思うのですね。「ペトロ、お前は何度もおんなじこと繰り返すなあ。しょうがないやつだ。信じていいんだぞ」。
ニコニコしながらそう語りかけるイエス様は、わたしたちにも同じように語り続けておられるのだと思います。何度も疑い、何度も沈みそうになるわたしたちの手を、何度も笑いながら引き上げてくださるイエス様のぬくもりを感じながら、そしてイエス様との距離、ディスタンスは決して離れることはないということを覚えていきたいと思います。