2023年8月27日<聖霊降臨後第13主日(特定16)>説教

「イエス様は私の救い主!?」

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 マタイによる福音書16章13~20節

 みなさんは、初めて会う人に「イエス・キリストって誰ですか?」と聞かれたらなんて答えますか? 今流行りのChatGPTに聞くと、瞬時に次のように答えてくれます。「イエス・キリストとは、キリスト教において神の子とされ、新約聖書に記された宣教師・教育者としての存在です。彼は約二千年前のパレスチナで生まれ、多くの奇跡や教えを残しました。キリスト教徒にとって、彼は罪の赦しと永遠の命をもたらす救世主とされています。」なるほど。まあ、こんなに上手にすらすらと答えられなくても、皆さんの中にはこのAIの答えと同じように、「クリスチャンは神様と信じています」とか、「聖書では救い主と書かれています」とか、なんだかんだぼやかして他人事のように説明して、「ま、私も一応クリスチャンなのですけどね、そんなに真面目じゃないので~」なんて後で照れ隠しに付け加える人多いのではないでしょうか。特に私たちの教派、聖公会では自分の信仰を確かめたり告白したりする訓練があまり行われませんから、そんな感じになりがちかなぁと思います。

 少なくとも、牧師になる前の私はそうでした。今でこそ、こうして説教壇に立ち、聖書から語られる神さまのメッセージを世界中の人が見られるYouTubeで発信していますし、スーパーで買い物をしているときに、もしふと誰からか「イエス・キリストって誰ですか?」と聞かれたら、目をキラリンと輝かせ、「イエス・キリストは私たちの救い主であり、神さまです」と答え、無理矢理にでもその人を教会へ引っ張ってこようとするでしょう。しかし、十数年前までは決してそうではなかったのです。牧師家庭に生まれ育ち、幼児洗礼を受け、ずっと教会に行っていたけれども、「イエス・キリストは、神の子、救い主です」と見ず知らずの人に言い切れる自信はありませんでした。なんとなく恥ずかしい。それを言うことによって自分がどう思われるかをまず考えてしまう。そして何より、本当に私は「イエスは私の救い主」と信じているのだろうか?よく分からない。ま、信じていることにしておこう。そんな風にあいまいなクリスチャンとして生きてきた気がします。今、これを聞いて、「あり得ない!」と思われた方もあれば、「よかったー、同じだ、安心した」とホッとされた方もいるかもしれません。

 イエス様の一番弟子であったペトロは答えることができたのです。当時、既に様々な奇跡を起こし、神さまの愛を人々に伝えていたイエス様ですが、彼は何者かということについていろんな噂が立っていました。今だったら何ていうでしょうね。超能力者、大予言者、宇宙人とかいう人もひょっとしたらいるかもしれません。当時のイスラエルの人々は、過去の偉大な人のよみがえりや再来と信じることが多かったようです。少し前にヘロデ王によって殺されたばかりの「洗礼者ヨハネ」、そして「エリヤ」「エレミヤ」といった旧約の預言者たちの名前が上がっていました。そこでイエスは、ご自身の弟子たちに尋ねたのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。普段から物おじしない無邪気なペトロはすかさず、ピンと耳の横に片ひじを伸ばしました。「はい!あなたはメシア、生ける神の子です!」。メシアとはヘブライ語でキリスト、救い主のことです。

 そして今、この問いは私たち一人ひとりにも、イエス様から投げかけられています。ChatGPTは私のことをこんな風に説明している。聖書の解説書はこう言っている。教会の牧師はこう伝えている。使徒信経、ニケヤ信経ではこう唱えている。でも私はそれを聞きたいんじゃないんだ。あなたは、あなた自身は私を何者だと言うのか? あなた自身の口からあなた自身の思いを聞かせてほしい。イエス様はこうおっしゃっているのです。今よく言われる同調圧力からではなく、自分の心の底からあふれ出てくる思いで「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことができるでしょうか? うーん、分からないという方もきっと多くいらっしゃるでしょう。

 ペトロはどうしてすんなりと言葉にできたのでしょうか。それは、ほかでもない、彼がイエス様に出会い、イエス様と生活を共にし、イエス様を知ったからです。彼はたくさんの奇跡を見ました。おびただしい人々のあらゆる病気を癒し、悪霊を追い出し、たった5つのパンと2匹の魚を五千人以上もの人に分け与えるイエスを見ました。嵐を静め、湖の上を歩いて自分たちを助けに来てくれるイエスを見ました。口先ばかりで愛のないファリサイ派や律法学者たちを諫め、本当に大切なことは何か、本当に神さまが望んでおられるかを行動を通して語られるイエスを見ました。そして山の上で、飼い主のいない羊の群れのような大勢の群衆に対して、「あなたたちは幸いだ。神さまはあなたがたと共におられる」と叫び、祈り方を教え、誰にでもわかる身近なたとえ話を通して、本当の神の国とはどのようなものかを語られるイエスを見たのです。

 本日は聖霊降臨後第13主日ですが、実は、今日がこの長い聖霊降臨後の緑の期節のちょうど真ん中に当たります。あと半分で降臨節に入るという今日、私は皆さんに宿題を出したいと思います。今日ぜひ、帰られてから、ペトロの目線で、改めてこのマタイによる福音書を読んでみていただきたいのです。漁師であったペトロがガリラヤのほとりでイエス様に「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」と声をかけられたのが、マタイによる福音書4章18節です。そこから、今日の箇所で、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した16章20節までを続けて読んでみてください。27ページほどありますので一気に読むのは難しいかもしれません。少しずつでも構いませんが、必ず、いつもイエス様のそばにくっついているペトロの気持ちになって読み、彼が見たこと、聞いたこと、感じたこと、経験したことを追体験していただきたいのです。イエス様を神の子と信じ切ることができたペトロの感動、彼の心の中に燃え上がった確かな光をきっと感じていただけることと思います。

 ペトロをはじめ、弟子たちはラッキーです。いつもそばに目に見えるイエス様がおられたのですから。私たちにはイエス様は目に見えない、声も聞けない、感じることもできない。いいな、うらやましいな、で終わるのでしょうか。そうではありません。イエス様は、このペトロの信仰告白の上に教会を立てられました。私たちには教会があるのです。そこでは聖霊が働き、私たちが集い共に祈り、聖書に聴き、感謝と賛美をささげる中でペトロの知っているイエス様に出会わせてくれます。そして、ともすれば疑いと迷いの中に溺れてしまう私たちの弱い信仰に確信を与えてくれるのです。もっともっと私たちは、教会に連なっている喜びを噛みしめることできないでしょうか。たとえ、物理的にそこへ足を運べなかったとしても、信仰を同じくする友がそこにおり、共に御国が来ますようにと祈り、イエス様の光がこの世の暗闇を照らしてくださることを信じ、この自分のために祈ってくれている、こんな世界があることにもっともっと感動し、喜べたらと思います。

 礼拝の終わりには、「ハレルヤ!主と共に行きましょう、主の御名によって、アーメン」という唱和をもって私たちはそれぞれこの世の遣わされた場所へと出ていきます。一人じゃありません。主と共に出ていき、主と共にこの世の苦しみ、悲しみ、そして喜びを味わい、泣いている人に手を差し伸べ、その人のために祈るのです。何も大きな看板をもって「イエスはメシア、生ける神の子です」と声を張り上げなくてもいいのです。イエスをメシア、生ける神の子と告白するというのは、ペトロが体験したイエス様が今もどんなときも私とともにいて守り導いてくださっていることを信じ、そこから受けた愛をまわりの人と分かち合うということなのかもしれません。聖書を読み、イエス様のことをもっと知って、イエス様ご自身が立てられた教会、につながっていましょう。神さまは生きておられ、今日もあなたと共におられます。