「わたしたちはひとつ」
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ヨハネによる福音書17章20~26節
今日は特別な主日であると、わたしはひそかに思っております。教会暦によれば、4月17日の復活日以降、復活のイエス様は40日の間、弟子たちや人々の前に何度も現れていたと聖書に書かれています。4月17日から40日というと、5月26日、つまりこの前の木曜日ということになります。そしてその日は、昇天日です。奈良基督教会では特別に昇天日の礼拝をすることがありませんのであまりピンとこられないかもしれません。昇天日の出来事は、先ほどと同じ使徒言行録に書かれています。
「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。
つまり復活したイエス様が40日を経て、天に上げられたというのです。その時、イエス様は周りの人に、約束されました。ご自分はいつか必ず戻ってくるということ。そして自分が戻るまでの間、聖霊を送るので安心しなさいという2つのことでした。
来週、教会は聖霊降臨日を迎えます。聖霊が、エルサレムで祈る弟子たちの元にやって来たことをお祝いする日です。同時に、肉体を持ったイエス様に出会うことができないわたしたち一人ひとりにも聖霊が与えられる、そのことに感謝する日です。
最初に、今日は特別な日ですとお話しいたしました。その大きな理由はここにあります。つまり、教会暦で言うと、今日、昇天日と聖霊降臨日の間にある主日は、イエス様はいないし、同時に聖霊もまだ降臨していないときということです。少し乱暴な言い方をしますと、今日、この日は神さま不在のとき、そういう風に言えるのかもしれません。
もしみなさんが「神さまって本当にいるの?」と聞かれたら、正直どう答えるでしょうか。わたしたちの多くは、「神さまは当たり前におられるもの」だと信じているので、多少の困難にぶつかっても、少しばかり涙を流しても、神さまはきっとよそを向いておられるんだ、きっとこの出来事には意味があるんだ、そんなことで自分を納得させようとします。しかし考えてみてください。わたしたちの周りにいる人の顔を。ご家族や、息子さん、娘さん、近所の方々、職場の人たち。その人たちはみんなクリスチャンでしょうか。神さまの存在を心から信じているでしょうか。
そうではない人も、きっとおられると思います。神さまの存在を受け入れることができずにいる。でもその方の思いもわかります。だって今の世の中を見ても神さまを感じることができない。神さまを信じる意味が分からない。神さまがいたとしても自分とは関係ない。そう思っても仕方がないからです。
この前、幼稚園の週末礼拝でお話しをしている途中で、一人の子どもが先生にこう小声で質問したそうです。「わたしは神さまから話しかけられたことがない」って。わたしは説教壇から当たり前のように神さまの話をしますが、そもそも神さまとわたしは出会っていないとその子は感じたそうです。
アダムとエバのように、直接神さまに語られたことがない。2000年前のユダヤの人たちのように、直接イエス様に触れられたことがない。そして2000年前にエルサレムで祈っていた人たちのように、聖霊を見える形でみたわけでもない。その状態にいるわたしたちは、何となく信じている。神さまはわたしを愛してくれているに違いない。イエス様はわたしに聖霊を与えてくれるに違いない。その思いをよりどころに、信仰生活を送っているのかもしれません。
しかし先ほども言いましたように、神さま不在ともいえるこの主日にこそ、神さまを感じることが難しくなったときに覚えておきたい出来事が、実は毎年読まれているんです。それはどんな場面かと言いますと、イエス様が祈られる箇所です。
その祈りはご自分が十字架につけられることが分かっている中、死に向かうことが分かっている中、弟子に裏切られ、見捨てられることが分かっている中でなされました。神さまに対し、この残される一人ひとりを守ってくださいという願いがそこにはあります。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とイエス様は祈られます。つまり目の前にいる弟子たちだけでなく、その言葉によって信じる人、それは2000年経った今を生きるわたしたちをも含んでいるのですが、その人のために祈っているというのです。
そしてその祈りとは、すべての人を一つにしてくださいという祈りです。続けて祈られます。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と。神さまとイエス様が一つであるように、わたしたちもまた一つになるように、そう願われています。わたしたちが一つになるということ。それはわたしたちだけでは、人間の力だけではとても難しいことのように思います。
でも自分の力に頼らずに、神さまのみ手にすべてを委ねるときに、わたしたちは堅く結ばれるのではないでしょうか。聖歌に「わたしたちはひとつ」という歌があります。主の霊が導かれるから、わたしたちはひとつになれる。神さまからいただいた愛が、わたしたちを一つにさせる。その導きを、愛を、どうぞ一人ひとりに与えて下さい。絶対に見捨てないでください。イエス様はそうやって、わたしたちのために祈ってくださったのです。
その祈りは、今も続けられている。神さまが感じられない世の中だからこそ、その祈りを覚えておきたい。イエス様がわたしたち一人ひとりのために祈り続けておられることを感じ、その温もりを感じていきたいと思います。
「わたしは神さまから話しかけられたことがない」、幼稚園の子はそう言いました。お礼拝のあと、みんなに語りました。
「先生もね、直接お話しを聞いたことはないんだ」、みんな一生懸命聞いてくれます。しかし実はこのとき、わたしの頭は真っ白でした。急に答えを求められ、何を語ったらいいかもよくわからない。だから思いつくままにしゃべろうと思いました。
「でもね、いろんなところで神さまがお話ししてくれていることに気づくことがあるよ。たとえばお友達が何か優しいことを言ってくれた時に、心がポカポカ温かくなることってあるじゃない?」。「それから悲しいことや悔しいことがあったとき、お布団に入ったら、何だか『大丈夫』って気持ちになることもあるかもしれないね。先生はそういうときって、神さまがお話ししてくれているんだと思うよ」。
どれだけの子が、わたしの話を聞いて「なるほど」と思ったはわかりません。頭で理解しなくてもいいと思います。でも何人かでも、心があったかくなったとしたら、きっとわたしを通して神さまがその子に直接語ってくれたのだろうと思います。
イエス様は、わたしたちのために祈り続けておられます。わたしたちが一人にならないように。神さまを通して一つとなるように。そしていつも神さまの愛の中で歩むことが出来るように。