日ごとの聖書(2月20日)

本日の通読箇所「ヨシュア記15:20~63」

ただし、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っている。

(ヨシュア記15章63節)

今日の通読は、とても長いです。しかもカタカナの、それも知らない町や村の名前が列記されているだけです。日本の町や村であれば、「あっ、ここ行ったことある」とか、「ここの名物、おいしいらしいよ」とか考えながら読むことができます。

しかし、「シャアライム、アディタイム、ゲデラ、ゲデロタイム」と続けられても、何の思いも感動も生まないとまで言うのは、言いすぎでしょうか。ただ現在のイスラエルが建国される前、自分が住んでいる場所の地名を聖書に見つけた人はどう思ったでしょうか。

この地域はユダ王国が滅亡した後、ハスモン朝を除けば現在のイスラエル国が建国されるまで、ユダヤ人国家ではありませんでした。そのような状況の中で、これらの地名を聖書に書き続ける。そこには何の意味があるのでしょうか。