「幸いだから」
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マタイによる福音書5章1~12節
今日の箇所は、このような言葉から始まっています。「イエスはこの群衆を見て」と。この群衆とは誰のことかというと、その直前、マタイ4章23節から25節に書かれている人たちのことでしょう。その一部をお読みします。
人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
イエス様の山上の説教はこのような人たちに対して語られたということです。最初に目に入るのは、「あらゆる病人」と書かれた人たちです。いろいろな病気や苦しみに悩む人、悪霊に取りつかれた人、てんかんの人、中風の人、そのような人たちがイエス様の元に連れて来られました。と同時に、見落としがちなのは、それらの人たちを連れてきた人々です。病気の人たちはもちろんのこと、彼らをイエス様の元に連れてきた人たちは、何とかしてその人たちを助けたかった。そこでイエス様の評判を聞き、イエス様にすがったということです。
そのような人たちが、とても広い範囲からイエス様の元に来たのです。聖書には、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側と書かれています。イエス様が宣教を開始したのはガリラヤのカファルナウムです。
例えばエルサレムからカファルナウムは、距離にして180kmくらいだそうです。またデカポリスやヨルダン川の向こう側という記述もあります。これは簡単にいうと、異邦人の町です。当時ユダヤの人たちと異邦人の人たちとはまったく交流がありませんでした。交わりがなかったのです。イエス様の元に集まってきた人たち、その人たちは長い距離をたくさんの時間をかけてやってきました。民族的に、宗教的に壁がある場所にもかかわらず、それを乗り越えてやってきました。
イエス様の目に、その人たちの姿が飛び込んできたのです。服はボロボロで、今にも倒れそうで、しかもその中には多くの病人がいて、口々に叫ぶわけです。「わたしたちを憐れんでくれ」と。
その声に、イエス様は動かされます。この人たちに、何を伝えようか。その思いの中でイエス様は山に上り、腰を下ろされて語り始めたのです。神さまはあなたがたをどう思っているのか、そのことを伝え始めたのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。イエス様はその弱り果てた人々を見て開口一番、「幸いだ!」と語られたのです。
さて、みなさんは初めて教会に来たときのことを覚えているでしょうか。あるいは、教会から離れていた時期があって、教会にようやく戻ることができたときのことを覚えておられるでしょうか。何度かお話したことがありますが、わたしは高校を卒業した時に洗礼を受け、それから10数年教会から離れていました。それが病気を機に、孤独を痛感し、神さまのぬくもりをもう一度確かめたいという一心で教会に戻ろうと決心しました。180kmも離れていないし、違う国の教会に行くわけではありません。しかしそのハードルは高いものでした。もともとわたしが最初に通っていた教会は、バプテスト系の小さな教会でした。教派と言えるほど大きなものではない教会でした。だからわたしにとって、それ以外の教会は未知のものでした。当時はホームページなどあるわけもなく、以前仕事で訪れた教会に行くことにしました。それがたまたま聖公会だったわけです。前日の土曜に、まず下見に行きます。看板を見たり、建物の様子を窺ったり、何かあっても逃げられるかシミュレーションしてみたり。一番不安に思ったのは、牧師さんの名前です。日本語の名前の前に「パウロ」って書かれていたんです。今では洗礼名のことだとすぐに分かりますが、当時はそんなこと知りませんでした。もしその人が日本語通じなかったらどうしよう、そんなことまで悩みました。
でも、どうしても教会に行きたかった。そして神さまに謝りたかったんです。「今まですいません」と。ボロボロになりながら、うなだれるしかないわたしの心に響いたのは、しかし優しいイエス様の声だったように思います。
そのときのわたしと2000年前の群衆、その思いや置かれた状況には違いがあると思います。しかし同じところがあるとするならば、どちらも神さまを一心に求めていた。神さまの愛を、恵みをいただきたかった。そういうことなのだろうと思います。
そのときに響いた、「幸いだ!」というイエス様の声。でも正直、何が幸いだろうかと思いませんか。みんなくたびれ果てて、もうどうしようもない状態です。「心が貧しいから」、そうイエス様は言われます。まさしく心がカラカラに乾ききり、その渇きを何とかしたい。でも自分の力では無理。神さまにすがるしかない。神さまに頼るしかないのです。
「そのときこそが、そのようなあなた方こそ、幸いなのだ」というのがイエス様の言葉であり、神さまの思いなのです。そして痛みに悲しむ人だけではなく、その人たちを遠くから、見えない壁を乗り越えてイエス様の元に連れてきた人たちに対しても、イエス様は語るのです。「あなたがたも幸いだ」と。
この人には、神さまが必要だ。この人と共に、イエス様歩んでください。そう願う一人ひとりに対しても、あなたがたの思い、おこないこそ幸いだ。神さまにただただすがる思いを神さまは喜び、受け入れてくださるというのです。
教会ではこの顕現節、緑の期節を経て、大斎節へと向かっていきます。今年の大斎始日は18日水曜日になります。そこからわたしたちはイエス様の十字架への歩みを心に留め、日々生かされている喜びを噛みしめながら、復活日へと導かれていくのです。今年、その大斎節を実りあるものとしていただけるようにと、大斎カレンダーを作りました。特徴的なのは、日付の右に斜体で書かれている数字です。これはマタイによる福音書の聖書箇所ですが、大斎始日から始めて日曜を除く40日間、聖書を読んでいこうというものです。聖書は21章の、イエス様がエルサレムに入られたところからスタートし、27章の逮捕され、十字架につけられたあと、お墓に入れられるまでを毎日、少しずつ読んでいくことになります。
その中で、イエス様の歩みを感じながら、復活前主日の礼拝、聖週、受苦日、聖土曜日と祈りを深め、復活の喜びに向かう。聖公会は、この教会暦を大切にしています。だからどうぞみなさんも、今年の大斎ではイエス様の受難に心を向けてください。
そしてどうしてそこまで、イエス様は苦しまなければならなかったのか。それは神さまがわたしたちを思う愛によるものだと、どうぞ心に留めてください。「あなたこそ幸いなのだ」と伝える、そのために、イエス様をわたしたちに遣わしてくださった神さまの恵みを、分かち合ってまいりましょう。




