2021年12月25日<降誕日>説教

「人々を照らす光」

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 ヨハネによる福音書1章1~14節

 みなさま、クリスマスおめでとうございます。しかし本日の聖書には、クリスマス物語の中で馴染み深いマリアやヨセフも、天使ガブリエルも羊飼いも博士たちも、まったく出てきません。出て来たのは、「初めに言があった」から始まる箇所でした。

 初めて教会のクリスマスに来た人が、この言葉を聞かされたときに、どう思われるでしょう。また難しいこと言って、と耳を閉ざしてしまうかもしれません。でも安心してください。ここには教会にずっと来られている方たくさんおられます。でもわたしも含めて、その意味がすっと入ってくるわけではありません。

 聖書の中で、「言葉」というものは、とても大切にされています。たとえば創世記1章には神さまがこの世界をお造りになった、いわゆる「天地創造」の場面がありますが、そこでは「光あれ」という神さまの言葉によって、天地創造は始められたとあります。すべてのものが神さまの言葉によって創造された。でもこの普段使う「言葉」という文字と今日の福音書の「言」には、大きな違いがあることにお気づきでしょうか。それは福音書では「言う」という漢字一文字で、「ことば」と読ませている。つまりわたしたちが日常使う「言葉」という漢字の、葉っぱの「葉」という字がないということです。

 聖書はもともと、日本語ではない言語で書かれた書物です。新約聖書はギリシア語で書かれました。ですからわたしたちが手にしている聖書は、いわゆる翻訳、日本語に訳されたものです。

 今日の「言」と訳されたもともとの語は、ギリシア語で「ロゴス」という単語です。この語には実は様々な意味が含まれており、わたしたちが日常使っている「言葉」という単語だけですべてを現すことができません。そこで、「言」一文字でこの「ロゴス」という単語を翻訳したのです。少し難しい話になってきましたが、大事ことは、この「ロゴス」という語がどんな意味で使われているのかということです。

 10年前の東日本大震災のとき、注目された方がおられました。その方は岩手県大船渡市で開業されていた医師で、カトリック教会の信徒さんでした。彼の名前は山浦玄嗣という方で、ご存じの方もおられると思います。震災後にすぐに診療を開始した様子がテレビで放映されたり、「なぜと問わない」という本が出版されたりしていました。

 しかし彼は、実は震災以前から、多くの人に知られていました。彼は「ケセン語」といういわゆる方言の研究に取り組み、新約聖書をケセン語に翻訳するということもされました。彼はなぜ、ケセン語という決して知名度があるわけではない言葉に聖書を翻訳しようとしたのでしょうか。理由は簡単です。彼は聖書の言葉を、人の心に届くものとしたかった。格調高い言い回しとか、普段使わない熟語、一生懸命考えないと理解できない単語は必要ない。そうではなく、普段使っている言葉で聖書を伝えたい、そう思ったからだそうです。

 その彼が、「初めに言があった」から始まるヨハネ福音書の冒頭を、このように訳しました。新共同訳聖書では、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と書かれている部分です。お読みします。

 初めにあったのは、神さまの思いだった。思いが神さまの胸にあった。その思いこそが、神さまそのもの。初めの初めに、神さまの胸の内にあったもの。(標準語の仮名遣いに変えています)

 彼は「言」、「ロゴス」を「思い」と訳しました。そこに注目してみたいと思います。「思い」、それは「意思」や「み心」とも考えることができる言葉です。神さまの思いが初めからあって、その思いによってすべてのものが造られ、そしてその思いによってこのクリスマスの出来事が起こった。その思いを受け取っていきたいと思うのです。

 神さまの思い、それは愛する独り子を、わたしたち人間の間に生まれさせるという決断でした。わたしたちにはなぜイエス様が必要なのか。いろいろな理由があるでしょう。でも今日、その中でも一番大事にしたい神さまの思いがあります。その思いとは、神さまはわたしたちを生かそうとしておられるということです。

 昨日まで降臨節、紫の祭色の中でわたしたちは礼拝をおこなってまいりました。その色が示すように、わたしたちは心の闇と向き合い、また目の前に迫った暗闇の中でもがいていたかもしれません。でも今、祭色は白へと変えられました。イエス様のご降誕、それはわたしたちに光が与えられたという大きな出来事です。クリスマスって何の日?クリスマスって何がうれしいの?クリスマスってわたしたちと何の関係があるの?多くの方が疑問に思われます。

 しかしその根底に、神さまの思いが詰まっているとしたらどうでしょう。神さまの思い、わたしたちを光で照らすために、ご自分の独り子イエス様をお与えになったのだとしたら、決してわたしたちは無関係ではない、わたしたちは当事者として神さまのみ業を受け取ることができるのです。

 昨日、昨年はできなかったイブ礼拝がおこなわれました。暗い中、キャンドル礼拝が静かにおこなわれました。でもここは、奈良の中心部です。いろいろなところから光は漏れてきます。また様々な音も聞こえます。真の暗闇を、最近は経験できなくなったように思います。でもだからこそ、暗闇に恐れを感じてしまいます。自分の心が暗闇に落ち込みそうになると、とても怖い。震えてしまいます。どうにか明るくしようと、必死で光を求めてさまよいます。神さまはそんなわたしたちの姿をご覧になり、「わたしがあなたがたを生かす」と決断されました。出口のない暗闇に一筋の光が灯されました。足もとも見えずに歩けないわたしたちの周りを、その光は優しく照らしてくれます。

 それがクリスマスの出来事です。ただ、中にはそんな光なんていらない。暗闇のままでいいと思う方もおられるかもしれません。確かにそうです。光もまた怖いものです。わたしたちのすべてをさらけ出してしまうのですから。神さまの光に当たったら、汚いところも、よくない部分も、うそをついたことも、人を傷つけたことも、すべて知られてしまう。神さまはこんなわたしたちをどうされるのだろう。そう思ってしまうかもしれません。

 でも、大丈夫です。神さまは、そんなわたしたちを、そのままの姿で受け入れてくださいます。どんなに弱くても、どんなにみにくくても、神さまはわたしたちを愛しておられる。そのことをどうぞ信じてください。

 そして神さまからの光である、イエス様を心に受け入れてください。わたしたちは決して一人ではない。イエス様を通じて、みんなつながっています。この光の中に、身を委ねましょう。光の子として歩みましょう。