「ヨセフの信仰」
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マタイによる福音書1章18~25節
さて、今日の福音書の主人公はヨセフです。幼稚園のページェントの中でもヨセフは登場します。でもどうでしょう。正直言って、マリアの影に隠れているような気がしませんか。
クリスマス物語は、マリアに対する天使ガブリエルのみ告げからはじまります、「マリア、あなたは身ごもって神の子を生みます。その子をイエスと名付けなさい」。その言葉に対して、マリアは「お言葉通りになりますように」と受け入れます。そして人口調査のためにベツレヘムに向かう場面になって、ようやくヨセフは登場し、「トントントン、どうか一晩泊めてください」と宿を探す場面でセリフも与えられます。しかしその後は、ずっとマリアの少し後ろでじっとして、ということになっています。
確かに幼稚園の子どもたちに演じてもらうのですから、マリアの心の葛藤やヨセフの思いなどにフォーカスを当てるのは、厳しいことだと思います。しかしヨセフの立場に立ってみると、かなり悩んだし、腹も立てたし、失望したし。そのようなさまざまな気持ちがあったのだと思います。
先々週の日曜日、教会でミュージカル「ザ・ファーストクリスマス」の公演がありました。このミュージカルの中では、ヨセフの心情にかなりスポットが当てられたように思います。マリアに求婚する場面もそうですし、マリアがエリサベトのところから戻って来たときもそうでした。
洗礼者ヨハネの母親であるエリサベトは、高齢の女性でした。もう子どもを生むことなど、不可能だと思われていました。マリアは天使のみ告げの中で、エリサベトが身ごもったことを知ります。そして神さまのご計画を確かめに、エリサベトに会いに行くのです。洗礼者ヨハネはイエス様より半年早く生まれました。マリアはエリサベトの元に3ヶ月ほどいたそうですから、マリアのお腹はナザレに戻ったころには大きくなっていたことでしょう。マリアとヨセフは婚約はしていましたが、ユダヤの慣習によると、正式に結婚するまでは一緒に住むことはできませんでした。その状況の中で、お腹の大きくなったマリアを見て、ヨセフはどう思ったのでしょう。聖書は簡潔に書きます。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。でもこんな簡単なことではなかったと思うんですね。裏切られたと感じ、ウソをつかれていると疑い、自分自身も責め、マリアのこれからのことを思い悲しむ。事情を説明するマリアの言葉など、耳に入らなかったでしょう。聖霊によって身ごもるなんて、誰が信じられるというのか、その思いを大きな声にして、ヨセフはマリアに叫んだかもしれません。そして彼は、決断をするのです。自分の中で、「正しい」と思う決断を下すのです。それは、「ひそかに縁を切る」ということでした。本来であれば、彼にはマリアを告発する権利があります。夫以外の男性の子どもを身ごもることは、姦淫という思い罪に当たります。姦淫を犯した女性は、石打の刑にされると定められていました。しかしヨセフは、自分の「正しさ」の中で、彼女が石打ちの刑に処せられることだけは避けたいと考えます。そして、ひそかに自分の元を去らせようと考えます。婚約者に不貞を働かれ、挙句の果てに逃げられてしまった男というレッテルは貼られるでしょう。しかし彼の「正しさ」は、それを受け入れ、マリアとの関係を絶つというものだったのです。
わたしがヨセフの立場だったとしたら、ヨセフほど寛大になれなかったと思います。自分を守るために、マリアをとことん責めたかもしれません。またマリアが泣き叫ぶぐらい叱責し、力づくで村から追い出したかもしれません。でもヨセフは、ひそかに縁を切ろうとしました。その彼の「正しさ」は、人間の考えの中ではものすごい決断だったと思います。しかし神さまは、そのご計画の中で、ヨセフの「正しさ」を上回る決断を、ヨセフに求めるのです。
主の天使がヨセフの夢に現れて、こう伝えます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。続けてこう伝えます。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。その言葉は、マリアがヨセフに伝えていたものと同じでした。その主の天使の言葉を聞いたときに、神さまのみ業が確かに自分たちに現われ、神さまのご計画の中に自分たちが巻き込まれていることに、ヨセフは気づかされたのです。そして彼は、信じる者となりました。2000年前のクリスマス、このヨセフの信仰がなかったならば、神さまがわたしたちを救われるご計画はどうなっていたことでしょう。しかし聖書にはわずかにしか記されていない一人の人の信仰によって、イエス様はこの世にお生まれになったのです。
今日、わたしたちはヨセフの信仰、そして決断について、思いを寄せてきました。神さまの思いはヨセフの「正しさ」をはるかに超えていました。それでも彼は神さまのみ心を信じ、そのみ旨がただただなされるようにと歩み続けました。
神さまはそして、わたしたち一人ひとりに対しても、チャレンジして来られます。「あなたはこのことを受け入れられるのか」、「あなたはこのために重荷を背負っていくことができるのか」。わたしたちは人生の様々な場面で、決断を迫られているのです。どう考えても苦しい。この道を行けばきっと辛いことが起こる。もっと楽な道があるはずなのに。様々なことを考えながらも、いつの間にか、険しい道を歩かされていることもあるでしょう。
わたし自身、牧師なんかもう嫌だ、園長なんて器じゃないのに。何度も何度も神さまに訴え続けています。でもそのたびに、暗闇の中でもがいているさ中に、光が与えられるのです。ふとした良いニュースを聞くことができたり、神さまが一緒にいてくださるという体験を与えられたり。そしてまた、恐れず歩んでいくことができるのです。「神さまがいつも共にいてくださる」、その思いを、ずっと忘れずにいることができれば、どんなにうれしいことでしょう。
ヨセフは人口調査の命令を受けて、身重のマリアを連れてベツレヘムへ行きました。本当であれば、マリアはその両親の元に預けておいた方が良かったと思います。今のような整備された道もなく、険しい山や谷もあったでしょうから、連れていくのは大変危険だったはずです。聖書には、何故連れて行かなければならなかったのかという記述はありません。でもきっとヨセフとマリアは、神さまのみ心を信じ、すべてを委ねようとしたのだと思います。目の前にどんな困難が待ち構えていたとしても、神さまはきっと守ってくださる。その信仰が彼らを支え、ベツレヘムへと送り出したのではないでしょうか。
わたしたちもまた、神さまに守られ、いつも支えられていることを心に感じながら、歩んでいきましょう。どんな困難が待ち構えていたとしても、大丈夫、神さまが共にいてくださいます。