2023年9月17日<聖霊降臨後第16主日(特定19)>説教

「ゆるすということ」

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 マタイによる福音書18章21~35節

 この前の火曜日、午後から「奈良県宗教者フォーラム」という集まりに参加してきました。このフォーラムは、お寺や神社が主となって実施しているものです。その思いが、当日配布された冊子に載せられています。「願い」というタイトルで、三つのことが書かれています。

1、混迷する現代社会のなかで、日本宗教のあけぼのの地でもある奈良から、宗教の果たせる役割を探ります。

2、日本文化の基層をなす「共生」や「和」の精神が育まれた奈良の地。対立ではなく、多様性を尊重する『信仰聖地』として、アジア、そして世界へ平和の光を発信することを願います。

3、奈良県宗教界のゆるやかな連帯と親睦をはかりたいと思います。

 参加者は神道10名、仏教17名、新宗教と呼ばれる6つの団体から計11名。そしてキリスト教からはわたしを含めて2名でした。平和を願うご祈祷からスタートし、杜についての講演会、そして交流懇親会とプログラムは進んで行きました。

 さてこのような話をしていくと、みなさんの中にはこう思われる方もおられるかもしれません。「そんな神社なんかに行くなんて」、「お坊さんと一緒にご飯食べるなんて信じられない」。聖公会ではそこまで言う方は少ないかもしれません。しかしキリスト教の中には、このような行為を「ありえない」と批判する教派があるのも事実です。

 当日、このフォーラムの中で、様々なことに気づかされました。日本古来の宗教や世界の様々な宗教の中には、自然崇拝といって山や木々、杜などの自然を信仰の対象とするものが多くあります。キリスト教はというと、それらのものはあくまでも神さまの被造物であるという信仰に立っています。ですから環境破壊とキリスト教とは、ある意味密接な関係があると言う考え方もあります。たとえば植民地支配を続けていく中で、あえて原住民が信仰の対象としていた木々や杜を破壊し、自分たちの信仰を強要していったということもあったようです。

 けれども夜の交流懇親会では、そのようなお互いの宗教批判などは一切なく、会場に残っていたほとんどすべての人、もう一人のキリスト教からの参加者は懇親会には出られませんでしたが、ほとんどの人と会話することができました。そしてその中で感じたのは、「受け入れられている」ということ。わたしを異質なものではなく、同じ奈良に住む宗教者として、語り合いましょうという、とても懐の深い姿勢で接してくれたこと、本当にうれしく思いました。

 わたしたちは聖書を通して、神さまの愛に気づかされていきます。しかしその中で、わたしたちはいつも気をつけていかなければなりません。それは聖書を、道徳や倫理を知る道具として利用してしまわないということです。たとえば先ほど読まれた聖書の言葉を聞いて、わたしたちは何を感じるのか。ペトロはイエス様に聞きます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。この言葉、実はペトロはものすごく頑張っているのです。というのもユダヤ教のラビと呼ばれる先生たちは、こう教えていました。「3回までは許しなさい」と。仏の顔ではないですが、だいたい人間が頑張って許せるのは、せいぜい3回。でもペトロはその倍以上許せばいいですか?とイエス様に聞くわけです。

 しかしイエス様は、「すごいねえ、ペトロ。いい心がけだね」と答えませんでした。「いやいやペトロ、それじゃあ足りない。7の70倍まで許しなさい」とイエス様は、さらに難しいことを言われるのです。7の70倍、計算して490回ということではありません。簡単に言うと、無限に許しなさいということです。手帳に正の字をずっとつけていって、それが490を超えたら許さなくていいよ、ということではないのです。ずっと、ずっと、いつまでも許し続けなければならないというとても厳しい言葉です。

 もしわたしたちが聖書を道徳的、倫理的に捉えるとしたならば、聖書を使った裁き合いが始まることでしょう。「あの人は許してない」、「教会はすべてを許さなければならない」、その中で一番怖いのは、「自分のことはさておき」という人が一定数出てくることです。たとえば神社と天皇制に対してブツブツ批判しながら、キリスト教の戦争責任には目を向けない。自分たちのことは許されて当然だと開き直る。自分は宗教だけでなく、政治や環境問題、日常の出来事に対して常に批判を繰り返すものの、自分がちょっとでも批判されると怒り出す。あなたはわたしの過ちに気づいても許さなければならない。聖書の教えをこのように解釈し、人に強要していくことは、神さまのみ心なのでしょうか。それがイエス様の伝えようとされたことでしょうか。

 イエス様はペトロに7の70倍と言った後に、一つのたとえを語られます。それは「仲間を赦さない家来」というものです。その家来は王様に、一万タラントンという額の借金をしていたそうです。一万タラントンといっても、なかなかピンと来ないでしょう。日本円にして約6000億円、奈良県の予算額は5000億円台ですから、それよりも多い額です。そんな、想像することすら難しい大変な額を、この家来は借金してしまっていた。そういうたとえです。

 結果的にこの家来は王様に、借金を帳消しにしてもらうわけですが、彼はその直後に自分に対して借金をしている人を発見します。その額は100デナリオン、日本円で100万円です。決して少ない額ではありません。でも自分が許された額のわずか60万分の1という金額なのです。

 お気づきのように、ここに登場する王様は神さま、そして家来はわたしたち一人一人です。わたしたちは考えられないほどたくさんの罪、ここで言う借金を背負っています。でも神さまは、それを「いいよ」と赦してくださった。罪を背負ったままの、真っ黒のわたしたちであるにもかかわらず、そのままの姿で受け入れてくださったのです。その恵みがまずあって初めて、わたしたちはようやく「許し」へと向かうことができるのです。人を受け入れようという思いが心に浮かんでくるのです。

 でもそれでも、許せない、そういうことはいくらでもあると思います。でもそのときにこそ、神さまがあなたを何の理由もなく赦し、受け入れてくださったという事実に立ち帰りなさいということです。こんなにたくさんの恵みを一方的にいただいている。その感覚が薄れるたびに、思い出していく。そのことが大切なのではないでしょうか。自分に対するほんの小さな損害に目くじらを立てるのではなく、大きな罪を赦し、さらにイエス様をお与えくださった神さまの大きなお恵みに感謝しながら、毎日を過ごすことが出来ればと思います。