2024年4月14日<復活節第3主日>説教

「イエス様のあかしびと」

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 ルカによる福音書24章36~48節

 エマオに向かう途中にイエス様に出会った二人の弟子は、その次第を他の弟子たちに話しました。またエルサレムでも、シモン・ペトロがイエス様に出会ったと言っていたそうです。そこにイエス様が来られたのです。そのときにイエス様が弟子たちに掛けられた言葉は、「あなたがたに平和があるように」でした。この「平和」という言葉は、「平安」という訳の方がしっくりくるかもしれません。心の波風が収まるように、ということです。

 94年前、この礼拝堂が建てられたとき、その設計者は信仰的な思いを、至るところに散りばめていたようです。たとえば礼拝堂を上から見ると多少いびつですが十字架の形になっていたり、礼拝堂全体が箱舟の形になっていたり。そしてチャンセルと会衆席との間にあるらんまには、丸い形が並んでいます。これは多分、波を意味しているのだろうと思います。

 わたしたちは常日頃、イエス様が共にいて下さると信じ、そしてこうして祈っています。しかしわたしたちは弱く、小さな一人一人です。その信仰は、簡単に揺らぎます。困難なことがあれば恐れ、悲しいことがあれば震えます。こんなことを思うことだってあるかもしれません。何故、イエス様を信じているのに、こんなことが起きるんだろうって。でもそのときには、この大きな箱舟の中に一緒にいる方を思い出してほしい。礼拝堂に波があるように、わたしたちの人生にも大きな波が来ます。でも大丈夫。いつもそばにいる方が、おられるのです。その思いがこの礼拝堂から伝わって来るようです。

 「あなたがたに平和があるように」とイエス様から言われた弟子たちの心には、驚きと喜びとが交差したことでしょう。ご自分の手と足をお見せになるイエス様。さらに「触ってよく見なさい」とまで言われるのです。そしてとどめです。イエス様はそこにあった焼いた魚をむしゃむしゃと食べられたのです。魚を食べることで、自分が亡霊ではないことを示されるのです。もう少し他の方法はないのだろうかと思うかもしれませんが、でもこの食事というのは、キリスト教にとって、とても大切なものなのです。エマオでのパン裂き、そして今日の魚を食べるイエス様。それだけではなく聖書には、多くの食事の場面が描かれています。5000人の供食や、徴税人や罪人と宴会をされるイエス様。そして最後の晩餐。イエス様は食卓を囲むことで、人々と共にいることを示し続けてこられました。

 わたしたちにとっても、食事というものは、とても大切なものです。教会では当たり前の様に、毎週日曜日には食事を作り、みんなで食べてきました。ところが、これはコロナになる以前からですが、この「食事を作る」ということについて、少し後ろ向きになる教会が増えていきます。わたしはコロナ前のこの教会の様子はよくわかりませんが、多くの教会が食事を見直すということに舵を切ったようです。一番の原因は、作り手がいなくなっているということです。普通の教会で30から40食、小さな教会でも10食以上食事を作るということは、簡単なことではないんですね。そしてコロナがやって来て、そのまま未だに食事を作っていない教会が多いのが現状です。

 仕方がないという思いと、寂しい気持ちと、両方の気持ちが重なり合います。当教会はありがたいことに食事を出すことができていますし、イースターやクリスマスの祝会を何の制限も設けずにおこなうこともできています。しかしいつ、「もう無理!」ということになってもおかしくはありません。でもそのときにぜひ思い出していただきたいのは、わたしたちが囲む食卓、そこで大切なのは「何を食べるか」ではなく、「誰と食べるか」ということなのです。

 イエス様は今日の場面、魚をむしゃむしゃと食べられました。でもここで注目したいのは、魚の種類ではないんですね。魚がアジか、マグロか、ヒラメかなんて、どうでもいい話なのです。大事なのは、イエス様は弟子たちの見ている目の前で、むしゃむしゃと食べられたということです。

 誰と一緒に食事をするか、そのことを考えるときに、昨日、今日とわたしは心の中で、ある活動について思い巡らせていました。それは「土曜会」というものと、「ペトロ会」というものです。生涯学習委員会や信仰支援委員会という名前を聞いて、「ああ、そんなものもあったなあ。なつかしいなあ」と思われる方も多いと思います。いずれもわたしたち奈良基督教会の活動であったものです。そのときの様子をいろいろな人に伺うと、随分活発に活動されていたことが伝わってきます。そしてその活動には、たいてい飲食が伴っていたことも聞きます。食事をし、多少のお酒も飲みながら、言いたいことを言い合う。意見が食い違うこともあったでしょう。でもその場に、その食卓の真ん中に、いつも一緒にいて下さる方を覚えながら、お互いの信仰を認め合い、また信仰を強めていったのではないでしょうか。

 食卓の真ん中におられる方、それはイエス様です。パンを裂き、魚をむしゃむしゃと食べ、両手を広げて、「あなたがたに平和があるように」と招いてくださる方がいるから、わたしたちは今日も、そして明日も歩む力が与えられるのです。今日の箇所の最後に、このような言葉がありました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と。これらのこととは何でしょう。十字架につけられたイエス様が、復活なさった。そのことを伝える、でも難しいですよね。「復活ってなに?どういうこと?」と聞かれたら、何て答えればいいのでしょう。もしかしたらイエス様が一番伝えたかったのは、こういうことなのかもしれません。「わたしはあなたたちの交わりの中に、いつもいるよ」、「あなたたちが食卓を囲むとき、その真ん中にわたしはいるよ」。

 わたしたちは日曜日のたびに、聖餐式をおこないます。その「感謝・聖別」の中で、司式者はこのように言います。「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き」、このときにどうぞ、イエス様を感じて欲しいと思います。目に見えるパンを裂いているのは、肉体をもった司式者かもしれません。しかし本当の司式者は、イエス様なのです。イエス様が聖卓の真ん中におられ、パンを裂き、共に食卓を囲んでくださっているのです。わたしたちはただパンを食べているのではない。イエス様がいつも共におられることの証として裂かれたパンを、わたしたちの命を生かすものとしていただくのです。心が騒いでいたとしても、大丈夫です。らんまの波のように、大きくうねっていても、イエス様はそのことをよくご存じです。すべてを委ねて、歩んで行くことができればと思います。

 そしてわたしたちは証し人として、この出来事を伝えていきましょう。多くの人と食卓を囲むのです。聖餐の食卓を、そして愛餐会の食卓を、さらに普段の、日常の食卓を。そこにイエス様がいることを一緒に感じていきましょう。