「新たに生まれる」
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ヨハネによる福音書3章1~17節
わたしたちは今日、大きな喜びを与えられています。この説経のあと、洗礼式がおこなわれます。教会にとって、洗礼者が与えられるというのは、大きな喜びです。そこには2つの大きな理由があります。一つは仲間が増える喜び。目には見えないけれども大きな糸でつながっている、そういう感覚さえ持ちます。
それともう一つは、わたしたち一人一人が、神さまとの結びつきを思い起こすことができるということです。みなさんの洗礼のときの記憶、あるいは幼児洗礼であれば堅信のときの記憶。もしかしたら忘れかけているかもしれません。でも教会でおこなわれる洗礼式を通して、「そうだった、自分はこんな風に受け入れられたんだ」とか、「わたしの式のときも、こんな風にたくさんの人が祈ってくれたに違いない」と思い起こす。そのことがとても大切なんですね。
さて、洗礼とはいったい何なのでしょうか。そのことを考える上で、今日朗読された聖書の箇所は、それぞれたくさんの気づきを与えてくれています。旧約聖書にはアブラハムの物語が書かれていました。アブラハム、創世記12章の段階ではアブラムと呼ばれていましたが、彼は75歳のときに神さまから、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」というメッセージをもらいます。どうでしょうか。75歳です。この教会だったら教会委員もお役御免、そんな年齢です。その命令に対しアブラハムはどうしたでしょうか。家族会議を開いたでしょうか。行くのを躊躇したでしょうか。「その代わりに」、と神さまに対して何か条件を出したでしょうか。そのいずれも違います。アブラハムは、「はい、わかりました」と二つ返事で出発するのです。ただ神さまの言葉を信じた。それだけなのです。それがアブラハムの信仰であり、神さまはその信仰を、義と認められたというのです。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、そのアブラハムの信仰を引き合いに出し、こう書きました。「彼は何か良いおこないをしたから神さまに義と認められたのではない。ただ神さまのことを信じて歩んだ。その信仰が義とされたのだ」と。パウロが語る、この信仰義認ということを、この洗礼式の日にこそ心に留めたいと思うんです。今日、この後で洗礼を受ける3人の子どもたちは、すごい良いおこないが認められて教会の仲間に入ることが許されたのでしょうか。うそもつかず、人を傷つけず、ケンカもしない。これからそういう子どもたちになると約束したのでしょうか。
お手元に、洗礼式の式文があると思います。この2ページから3ページのところに、「誓約」というところがあります。ここで洗礼を志願する人は一人ひとり、誓約をしていくことになります。たとえば2ページの下には、「あなたは」から始まって「すべての悪の力と戦いますか」という質問が出てきます。どうでしょう。普通だったら模範解答は、「はい、戦います」ではないでしょうか。自分の力で戦うんだ、その意気込みが正しいようにも思えます。しかし、違うんですね。「神の助けによって戦います」というのが、洗礼式の中で志願者が口にする答えになります。そしてその答え方は、3ページにも同じように続いていきます。「神の助けによって退けます」、「神の助けによって受け入れます」、「神の助けによって寄り頼みます」、「神の助けによって努めます」。しつこいくらい、くどいぐらい、「神の助けによって」と繰り返す。そうなんです。洗礼を受けるわたしたちは、完璧な人間になったから集められたのではありません。弱く、不完全で、神さまの助けがなければ歩むことのできない、でもだからこそ、こうして神さまの元に集められたのです。
そしてそれは、今日、洗礼を受ける人たちに限ったことではありません。わたしたちもそうなのです。最近、こんな言葉をネットで目にしました。「教会のくせに」って。教会は本当に神さまのみ心に従っているのか、間違っているのではないのか。そういう批判だったらわかりますが、「教会はこうあるべきでしょ」ということを、ネットに一杯書き込む。でもですね。思うんです。教会って聖人君主の集まりでしょうか。正しい人だけが集まる別世界でしょうか。違うんです。不完全な一人ひとりが、弱く小さい一人ひとりが、神さまによって生かされている一人ひとりが集まるところ。それが教会です。教会はそんな一人ひとりが集められた場所です。だから、間違いも犯すでしょう。いざこざもあるでしょう。自分の思いとは違うことが、平気でおこなわれているかもしれません。でもそれが、当たり前なのです。神さまに呼び集められたわたしたち一人ひとりは、弱く、小さい。でも一つだけ、神さまが認めてくださったものがあります。
それは、信仰です。でも信仰というと、なんだかぼんやりしてわかりづらいかもしれません。聖書によっては、信頼とか、信という一文字で表現しているものもあります。簡単にいうと、神さまに寄り頼む心、ということかもしれません。「神の助けによって」と繰り返したように、自分の力でもがくのではなく、神さまの大きなみ手に包まれて歩んでいく。その思いを神さまは「良し」とされ、わたしたちを生かしてくださるのです。
今日の福音書には、イエス様とニコデモの会話が書かれていました。イエス様はニコデモに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言います。「新たに生まれる」、その言葉にニコデモは戸惑いました。「そんなことはできない」、そう彼は思いました。そんなニコデモに対し、イエス様は言葉を続けます。それは聖書全体を一文で要約するとこの文章になるという意味で「ミニバイブル」とも呼ばれる箇所です。お読みいたします。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
独り子、つまりイエス様を信じ、神さまにすべてをお委ねする一人ひとり、たとえどんなに汚れていても、悪いことをしてきたとしても、関係ありません。神さまはそんな一人ひとりを迎え入れ、永遠の命を与えて下さるのです。
それはなぜか。わたしたちが素晴らしい人間だからでも、立派なおこないをしているからでもありません。ただただ、神さまがわたしたちを愛しておられるからです。他の理由はありません。「わたしはあなたがたを愛している」、その神さまの思いによって、わたしたちは生かされているのです。
これから、洗礼式に移っていきます。洗礼式は、礼拝堂の後方でおこなわれます。どうぞ皆さん、心から神さまにお祈りし、迎え入れていきましょう。そしてみなさんもまた、神さまに迎え入れられた一人ひとりだということを、思い起こしてまいりましょう。