2020年9月27日<聖霊降臨後第17主日>説教

「ぶどう園で働こう!」

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マタイによる福音書21章28~32節

 父親の呼びかけに対し、「いやです!」と言いながら、あとで考え直してでかけていく兄と、「お父さん、承知しました!」と元気のいい返事をしながら、結局出かけない弟。この兄弟のどちらがお父さんの望みどおりか。はい、兄の方です、という今日のお話、非常に単純明快です。しかし単純だからこそ、じっくりと深く読んで、今生きるわたしたちに何を伝えようとしているのだろうと考えるときに、毎回新たな発見があります。

 このお話では、最初「いやです」と答えたが、結局行ったというお兄さんが褒められているわけですが、よくよく考えればこの最初の「いやです」という完全な拒否反応は相当なものです。当時は今と違って、父親の命令は絶対の家父長制ですから、もうそれは勘当覚悟のような受け答えと言えるでしょう。

 弟は「お父さん、承知しました!」と良い返事をします。それもわざわざ「お父さん」を付けるわけです。英語では、“I will, sir.”と訳されています。きちんと、相手を尊敬の対象として捉えた上で、敬礼でもするかのごとく、「行きます」と答えるわけです。それはきっと世界中の親がうらやむような気持ちのいい返事です。しかしこの弟は、よい返事をしながら、結局はお父さんの命令に従わないのです。まあ、いちばん人をがっかりさせるタイプですかもしれません。

 もう一つ面白いと思うのが、兄弟はこの二人しかいないということです。「お父さん、承知しました」と返事をしたうえで、その通り行動する完璧な兄弟がもう一人いてもよさそうな気もしますが、いないのです。不完全な兄弟二人しかいないこの家、これはわたしたちが住む世界を表しています。わたしたち人間は皆罪をもって生まれた、不完全な者であることが示されている気がします。

 さて、では、あなたは、どちらのタイプでしょうか。わたしは、性格的には、完全に弟の方です。昔からやってみたがりで、何でも新しいことが目の前に現れると、すぐ手をあげて、はい、やります!と飛びつきます。でも、できない。すぐ飽きてしまったり、違うことに目移りしてしまったり、自分のあまりの能力のなさに気づかされて落ち込んでしまったり。初心貫徹ということがなかなかできないタイプです。

 でも、わたしの人生で一つ不思議に思うことがあるのです。それは自分が兄のほうであると気づかされた経験です。それも自分の意思によってではなく、自分を超えた何か大きな力によって導かれた感覚です。わたしは父の司牧する神戸の教会で生まれ育ちました。教会に隣接する幼稚園の二階部分にあったわたしたちの住む牧師館はとても小さく、信徒さんが中から自由に上がって来られるような造りになっていました。伝道師やたくさんの人たちにかわいがられ、楽しいこともいっぱいあったのですが、プライバシーがありません。教会から離れることが出来ない。日曜礼拝に出ないという選択肢がない。中学生の頃、「もういやだ!」と脱出計画を企てました。高校1年でアメリカへ留学したのです。神様に教会は「いやです」ときっぱり言いました。

 アメリカでの寮で初めて、教会に行かなくてよい生活、日曜日の朝、思う存分寝ていることができる生活を経験しました。文字通り、「自由を掴んだ」 という感覚でした。ところがある日、心にものすごい渇きを感じたのです。ホームシック、友達のいない寂しさ、英語が喋れるようにならない焦り、そういった苦しみがどんどん大きくなってきたこともあったと思います。その時、ふと思いました。「行ってみよう」と。教会です。初めて行ったアメリカの教会は、大きく、大勢の知らない大人ばかりで、牧師の英語の説教は何一つ意味が分からず、緊張だけで何も楽しくありませんでした。でも、帰り際、おなかの中に響いたのです。「お帰り」。イエス様の声でした。幼児洗礼を授かり、12歳で堅信を受けたわたしでしたが、そのとき初めて主に出会ったのです。そこから時間がたち、ものすごく曲がりくねった道をあっち行きこっち行きしながら、今、最終的に辿り着いたのが、最初に 「いやです」と言い切った教会なのでした。やっぱり不思議です。

 今朝のお話の兄は、「いやです」と答えたが、あとで考え直して出かけた、とあります。この「あとで考え直す」は、ギリシア語で「メタメロマイ」という語ですが、そこには「関心を抱く、気にするようになる」という意味があります。すなわち、それまでまったく関心がなかった、自分でシャッターを下ろして見ないようにしていた存在とか関係性が、気になるようになる、パッと目の前に浮かび上がるということなのです。それはちっぽけなわたしたち人間の力ではできません。聖霊の働きです。聖霊を通して、わたしたちは主イエスに出会うことができる。そしてそのときに初めてわたしたちは、「そうだ、ぶどう園へ行こう」と心から思い直してお父さんの声に従うことができるのです。

 この主イエス・キリストこそが、人間としてただ一人、「お父さん、承知しました」と返事をして、ぶどう園へ行かれた方でした。今日の第二の朗読は、フィリピの信徒への手紙2章が読まれました。有名な「キリスト賛歌」と呼ばれる箇所です。2章6節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」最初から最後まで神に従順であられたこの方ご自身が、あなたをぶどう園へと招いてくださるのです。この方の手招きなしには、わたしたちには、ここで「お父さん」と呼ばれる神様の呼びかけが、そこに込められた神様の思いが伝わらないのです。

 さて、主イエスが手を引いて連れて行ってくださるぶどう園とは、いったいどんなところなのでしょうか。実は、先週の聖書箇所もぶどう園の働く人たちのたとえ話でした。その箇所を通して、わたしたちはぶどう園で働くということがどんなに大変なのかを想像することができます。炎天下、朝から晩まで腰をかがめて、ぶどうの苗を植える、あるいは地面を這うように育った枝からぶどうの房を摘み取る作業です。それはしんどい。決して楽な仕事ではありません。それを知ると、行きなさいと言われて、素直に「はい」と言って行く人なんていないかもしれません。

 でも先日、こんなことがありました。ある方から、最高級の美味しいぶどうをお裾分けにといただいたのです。大きくて、宝石のように美しく、ジューシーで、香り高く、一粒食べると本当に幸せな気持ちになりました。わたしはそれをいただきながら、このぶどうを作っているぶどう園で働く人たちを想像してみたのです。土を作り、苗を植え、支柱を立てて、伸びた枝を剪定し、肥料と水をやり、実が出来たら種なしの処理をし、一粒一粒がきれいに大きく膨らむように形を整え、虫が付かないように袋をかけて、気象情報にびくびくしながら収穫の時を待つ。それは、わたしたちが想像もできないような大変な苦労があることでしょう。でもきっとそこで働く人たちは誰よりも知っているのです。そこで成るぶどうの実の絶大な美味しさを。そしてそれが人々の手にわたり、一粒もいで口に入れたときの何とも言えない笑顔を。そして、それを別のだれかに食べさせてあげたくてしかたがなくなる大きな喜びを。

 神様は、わたしたちにそこに行きなさいと言われます。神様の農園で働き、神の愛のビタミンがいっぱい詰まった、ジューシーで、一粒食べれば、カラカラに乾ききった喉がすうっと潤い、新しいいのちに生き返るような、そんなぶどうを育てるのを手伝ってほしい。神さまはそう言われるのです。それが神の国です。

 最初は見向きもしなかったのに、あとで考え直してぶどう園へ出かけて行った兄、それは、当時の徴税人や娼婦たちであったとイエスは言われます。今まで社会の中で蔑まれ、罪人と呼ばれ、嫌われ、関わることをも拒まれてきたかれらが、イエスを通して神の愛に触れ、生きる力と希望を与えられたのです。そして、次は自分たちがその愛を人々に伝えるものとして変えられていきました。

 反対に、行きますと言いながら行かなかった弟は、ユダヤの宗教指導者たちのことでした。かれらは、自分たちは自分の力で救われる、まわりの弱い人たちを蹴落としてでも、自分が律法を必死で守ることで神の国に入れると思い込んでいた人たちでした。イエスに出会っても、目にかすみがかかっていて、彼を救い主だとは認めることができなかったのです。行きますと言いながら行かなかったと書かれてありますが、実は、行きたくても行けなかった、ぶどう園にたどり着く道が分からなかったのかもしれません。だれも、主イエスを通らなければ、主イエスに出会わなければ、ぶどう園へは行けないのです。また、行く気さえも起らないのです。

 さあ、ぶどう園へ行きましょう。ぶどう園は、わたしたちが生活する場にあります。職場、学校、家庭、あらゆるところにあります。わたしたちは主に出会い、ぶどうをいただき、その味、香り、みずみずしさ、それこそが永遠のいのちをもたらすものであることを知っています。神様の農園で汗水流して働き、一人でも多くの人にそのいのちのぶどうをお届けしましょう。