その光はまことの光
ヨハネ1:6-9
司祭 ヨハネ 井田 泉
奈良基督教会にて
「1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ヨハネ1:6-9
洗礼者ヨハネは神から遣わされた人でした。彼の使命は、まことの光である方を指し示すこと、すべての人がその方を信じるように命がけで指し示すことでした。そのヨハネが示したまことの光であるイエスについてヨハネ福音書は次のように語っています。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
まことの光なるキリスト。この方がこのわたしたちの闇と混乱の世界に来られて、すべての人を照らされる。それは闇と混乱の中にあるわたしたちを救うためです。
まことの光であるイエス・キリスト。この方は人をまっすぐにご覧になります。人は上辺を見、表面を見る。しかしこの方は心を見られます。この方のまことの光、真実の光が、人の心の奥まで見通してしまうのです。
イエスはいろんな人と出会っていかれます。この方は人のまこと、真心、真実を求めておられます。そしてあるとき、一人の人を見出されました。その名前はナタナエルです。
ナタナエルはフィリポの友人でした。フィリポのほうは先にイエスを信じるようになっていて、何とかして友人のナタナエルをイエスと引き合わせたいと思いました。
「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」ヨハネ1:45
しかしナタナエルは極めて懐疑的です。こう言ううのです。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」1:46
それでもフィリポは、「来て、見なさい」と言いました。フィリポはナタナエルを無理にでもイエスに出会わせわせたいのです。
「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』」1:47
それを聞いたナタナエルは驚いてイエスに言いました。
「どうしてわたしを知っておられるのですか。」1:48
「イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。49 ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」1:48-49
こうしてイエスはナタナエルをご自分の弟子とし、ナタナエルはイエスを信じて従う者となりました。
ナタナエルはけっして理想的な人物ではありません。初めからイエスを疑ってかかっていました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」など偏見に縛られていました。けれどもイエスは彼の中に、まことの人、真実の人を見ておられました。まことの光である方がまことの人を見出したのです。
しかしここでイエスが一瞬にして人を見破る力を持っていた、ということ言いたいのではありません。イエスは事実を見ておられたのです。ナタナエルが、いちじくの木の下にいたのを。いちじくの木の下で彼が苦しみつつ祈っていたのを、イエスは見られた。彼の真理を求めるひたむきさを、神を求める真実をイエスをはっきりと感じとられたのです。
イエスがわたしたちをご覧になったとき、何を見、何を感じられるでしょうか。
わたしたちも完全な者ではありません。しばしば疑い深く、また傲慢です。けれどもまことの光であるイエスは、わたしたちの心の奥にある真実を求める思いを、救いを求める祈りを感じとって、それを大切に心にとめてくださるのです。
イエスのまことの光に照らされて、わたしの心の奥の真実が大切に引き出されたとき、イエスのまことがわたしのまことを見出して、それがつながったとき、何かが起こります。
イエスに喜びが起こる。わたしに喜びが起こる。そしてわたしたちの人生の新しい出発が起こります。わたしを信頼してくださる方をわたしも信頼して、この方について行く。
まことの光である主イエスさま、わたしたちは愚かで高慢で、また臆病です。けれども、あなたを求める真実の思いをわたしたちのうちに見出してください。それを引き出してください。あなたに見出されて歩む人生の祝福を味わわせてください。アーメン