「目を覚ます」
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ルカによる福音書12章32~40節
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。先ほど読まれたヘブライ人への手紙の最初に、このような言葉がありました。「信仰」、その言葉をわたしたちはどう捉えればよいのでしょうか。一般的に言いますと、イエス様を受け入れ、信頼し、すべてを委ねて歩んでいくこと、そういう風に言えると思います。しかし具体的にどのようにすることが、受け入れ、信頼し、すべてを委ねることになるのか、分かりづらいというのも正直なところです。
今日の福音書の中で、イエス様は語られました。「小さな群れよ、恐れるな」と。聖書をお持ちの方は、ぜひこの箇所を開けて頂きたいと思いますが、イエス様はこの話を、ある有名な言葉の後でされているのに気がつきます。その有名な言葉とは、「思い悩むな」というものです。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」というものです。
さらにイエス様は、鳥や野原の花について語られます。「空の鳥は」という歌を思い出します。「空の鳥は小さくても お守りなさる神さま」、その歌詞の中には、このような意味が込められています。自分の力では何もできないように見える鳥だって、神さまは養ってくださる。そのような小さなものさえも、神さまは守ってくださるのだから、あなたがたは安心しなさい、ということになるのでしょう。
しかしわたしたちは、自分の力でどうにかできるのだと考えてしまいます。その結果、イエス様にこう言われてしまうのですね。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
先週、奈良基督教会のファミリーキャンプが北小松でおこなわれました。42名の参加者が与えられ、とても恵まれた時間を過ごしてまいりました。ただ行く前から、不安があったのも確かです。大きな理由は「暑さ」です。小さい子が多い奈良のキャンプです。どうなるのだろうという不安があります。多くの人数が建物の中でずっと過ごさないといけないのだろうか。何よりも、そんなキャンプって面白いのだろうか。そのようなことをキャンプの前夜、ずっと思い悩んでいました。
でも結果的には、二日目のお昼ご飯は建物の中で食べたものの、水泳も思う存分できたし、生き物観察も、バーベキューも、花火も、工作も、スイカ割りも、朝食、夕食も、そして朝の礼拝もすべて外でおこなうことができました。いろんなことを思い煩っていましたが、振り返ってみるとすべてのことを神さまが備えてくださっていたということ、改めて感じました。暑さを感じながらも、たくさんの笑顔に包まれたこと、本当に感謝です。
わたしはキャンプでは、多くの時間、湖に浮かんでいます。子どもの参加が多いので、水泳の時間はできるだけ子どもたちと一緒に、湖に入るようにしています。水の事故が一番怖いので、みんなを見渡せる場所でプカプカ浮いているようにしています。
といいましても、何か不思議な力があって湖に浮くことができるわけではありません。湖の沖に浮いているソーセージブイという、プカプカ浮いているまあるい物に身体を預け、自分もプカプカ浮いているわけです。何も考えずにそのブイに背中を乗せ、リラックスしていると、いつまでも浮いていられる気がします。でもたまに、いたずらっ子が水鉄砲を手に、襲ってくることがあるんです。するとどこかに力が入ってしまうのでしょう、バランスを崩して沈んでしまいます。
すべてを委ねている間は、波に身をまかせて浮かんでいることができるけれども、少しでも動揺があったときには、すぐに沈んでしまう。それが聖書でイエス様が言われている、「思い悩むな」というメッセージにつながっているように思うのです。
今日、教会では洗礼式がおこなわれます。洗礼式のたびに、わたしはいつも、改めてこのことの大切さを思い出します。それは、すべてのことを「神さまの助けによって」おこなうということです。何度か説教の中でもお話ししましたが、洗礼志願者は誓約の中で、例えばこのように聞かれます。「あなたは、あなたを神の愛から引き離す、すべての罪深い思いと言葉と行いを退けますか」。「はい、退けます」と自信をもって言えたら、どんなに素晴らしいことでしょう。「自分には、それだけの力がある」、「自分はそれだけ強くなった」、その思いで洗礼式の場に来ることができれば、他には何もいらないかもしれません。でも考えて見てください。そのように自分の力で生きる人には、実は神さまも必要ないのです。
洗礼志願者は、このように答えます。「神の助けによって退けます」と。神さまがそばにいて、自分を支え導いてくれるから、わたしは歩んでいける。そのことをみなさんの前で誓約するのです。つまり洗礼は、何かを成し遂げたゴールではなく、スタートなのです。今日から神さまと共に歩む、新しい一歩が始まるのです。
洗礼式は、決して志願者の方だけのものではありません。ここに集まる、わたしたち一人ひとりに様々なことを伝え、気付かせてくれる大切な式です。わたしたちも自分が神さまを受け入れたときのことを思い返し、神さまに委ねることを思い出すのです。これから洗礼に導かれようとしている方にとっては、神さまの呼びかけに応えるチャンスです。
福音書の中で、イエス様は「目を覚ましていなさい」と語られました。わたしたちの心の中にある信仰の火を灯し続けなさいと捉えることの出来る言葉です。毎日聖書を読み、祈り、イエス様に倣って歩んで行く。そのことを求められているように感じます。それは一つ、とても大切なことです。
そしてこの言葉を、「委ねる」という視点で聞いてみると、「目を覚ます」ということはすなわち、いつもそばにいてくださるイエス様を感じなさい、ということになるように思います。思い煩いの中にも、恐れの中にも、いつも共にいてくださる。そのような方がいるということを、わたしたちはいつも忘れずにいたいと思います。
わたしたちはこの人生の中で不安に襲われ、孤独を感じ、歩く力を失ってしまうことがあります。そんなときには身体の力を抜いて、プカプカと身を任せましょう。イエス様はあなたの身体を優しく支え、必ず導いてくださいます。
そのみ手のぬくもりを信じ、歩んでいきましょう。




