「主は生きておられる」
YouTube動画はこちらから
ルカによる福音書24章1~10節
主のご復活、おめでとうございます。また礼拝の中で洗礼式をおこなうことができますこと、本当に感謝しております。
イエス様の復活という出来事は、単なる歴史的なある瞬間におこったことではありません。旧約時代からの神さまと人間の関係、神さまから律法が与えられたものの、それを守ることのできなかった人たち。その状況を嘆かれて神さまは、イエス様をわたしたちの間に遣わされました。それがクリスマスの出来事です。イエス様の誕生を通して、わたしたちに神さまの愛が示されていきます。顕現節の間、わたしたちはその光を感じていくのです。しかし神さまのご計画は、その先にありました。神さまはイエス様を、わたしたちとの間にある溝を埋めるために、難しい言葉で言うと神さまとわたしたちとが和解することができるために、血のいけにえとしてささげることを決意されたのです。
大斎節の40日間というのは、その神さまのみ心を知ったイエス様が、エルサレムに向けて、そして十字架に向けて歩み続けられた、そのことを覚える期間です。弟子たちに受難の予告をし、それでもわたしたちのために歩みを止めなかったイエス様の思い、神さまのみ心を心に留めるのです。そしてエルサレムに入城された復活前主日、先週の礼拝です。わたしたちの耳にはまだ、残っているかもしれません。近鉄奈良から歌いながら行進していったその声が。そして棕櫚の枝を振りながらついて来る子どもたちの姿を思い出すことでしょう。そしてその礼拝の中で、わたしたちは群衆の一人として叫びます。「イエスを十字架につけろ!十字架につけろ」と。その声は、決して芝居だけのことではありません。わたしたちの思いと言葉と行いが、イエス様を十字架へと向かわせた。そのこともわたしたちは、心に深く覚えておきたいと思うのです。
この前の金曜日、受苦日の礼拝をおこないました。礼拝の中で、十字架を高く掲げる場面があります。礼拝的には、十字架の勝利を示しているものです。しかし一昨日、礼拝の中でわたしは十字架を高く掲げましたが、手が震えてしまいました。それは何故かというと、十字架上で息を引き取られたイエス様が本当に死んだのだろうかと兵士が確かめる場面、その兵士は持っていた槍をイエス様のわき腹に突き刺すのですが、その行為とわたしの十字架を上に上げる仕草と、リンクしてしまったのです。
そして昨日、聖土曜日の礼拝において、わたしたちはすべての祭色が取り除かれた、暗闇をイメージした礼拝をおこないました。墓に葬られたイエス様を覚え、ただひたすら祈る。同時に礼拝では復活のろうそくの祝福もおこないます。パスカルキャンドルに必ず火は灯されると信じて、わたしたちは祈ったのです。
2000年前、女性たちは墓に眠るイエス様のために、香料を準備していました。彼女たちはどういう思いだったのでしょうか。昨日の礼拝で復活のロウソクを準備したわたしたちと同じように、イエス様は必ず復活されると信じていたのでしょうか。
残念ながら、そうではありませんでした。彼女たちが用意したのは、遺体が腐敗し、嫌なにおいをまき散らすのを防ぐための香料でした。彼女たちの中で、イエス様は亡くなった、そういうことでした。
ルカによる福音書9章21~22節にこのように書かれています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。この言葉は弟子たちに、衝撃を与えました。彼らの耳にはイエス様が語った、「多くの苦しみを受け」、そして「排斥されて殺され」という言葉が残ったことでしょう。
しかしイエス様は、このときにすでにはっきりと言われているのです。「三日目に復活することになっている」と。神さまのご計画によって、そのように決まっているんだとイエス様は伝えておられたのです。弟子たちはだれにも話さないようにと命じられたので、女性たちにこのことを伝えなかったのでしょうか。それはわかりません。しかし聖書は伝えるのです。復活の朝の出来事は、驚きの中で起こったのだということを。
最初に触れましたが今日、洗礼式があります。わたしたちは洗礼を受けるときに、洗礼準備というものをおこないます。幼児洗礼の場合はそれはできませんが、そのときにわたしたちは教会問答に書かれていること、洗礼とは何か、教会とは何か、信徒とは何か、わたしたちの信仰とは何か、といったことについて、学びを深めていきます。
ただしここで勘違いしてはならないのは、わたしたちは勉強して、ある一定のレベルに達したから洗礼を受けるのだ、ということではないということです。それよりも自分の弱さ、小ささに気付かされ、神さまを求め、委ねることしか出来ない自分を認め、イエス様の導きを心から受け入れるということが必要なのです。
こう言ってしまえば元も子もないですが、洗礼を受けたからって、わたしたち自身は何も変わりません。神さまに背いてしまうこともあれば、人を傷つけることもあるでしょう。洗礼を受けたら真っ白な自分になれるのか、そんなことはありません。
ではどうして洗礼を受けるのでしょうか。洗礼式の中の「誓約」というところに、その意味が込められています。それは何をするにしても、「神の助けによって」おこなうということです。簡単に言うと、自分ではなく神さまにお任せするということです。
今日の復活日に読まれた聖書の箇所、よく見てみますととても不思議な感じがします。女性たちは実は、復活のイエス様に出会っていないんです。そこに白い衣を着た人はいましたが、お墓は空っぽでした。わたしは思います。もしこのとき、復活したイエス様がお墓におられ、女性たちに、「さあ、弟子たちにこのことを伝え、ここに呼びなさい」と言われていたとしたら、イエス様はあくまでもその当時の人たち、その地域の人たちとだけ関わりのある、逆に言えばわたしたちとは関係のない人になっていたかもしれません。
しかしイエス様は、墓に留まりませんでした。そこに居続けるということはなかったのです。そこも、神さまのご計画です。神さまはイエス様を、すべての人が生かされるように、すべての人のところに遣わされました。特定の人ではなくすべての人のために、ここに集うみなさんのために、わたしたちが心に覚える大切な人のために、そして今日、洗礼の恵みに与る方々のために、神さまはイエス様をわたしたちのためによみがえらされました。
その恵みを感じ、共に主のご復活をお祝いしましょう。そして来週から、復活のイエス様との出会いが語られていきます。わたしたちと復活のイエス様との出会いを思い起こしながら、そしてまだ出会われていない方々に復活のイエス様が手を差し伸べてくださることを祈り求めながら、その日々を過ごして参りたいと思います。