2022年4月10日<復活前主日>説教

「父よ、彼らを」

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 ルカによる福音書23章1~49節

 今日の礼拝は、棕櫚の行進からスタートしました。「ホサナ、ホサナ」という声の中、わたしたちは礼拝堂に入り、礼拝を開始しました。2000年前のエルサレムにおいても、人々の歓呼の叫びの中、イエス様はエルサレムに入られたとあります。

 それからわずか4日後の夜に逮捕され、5日後には十字架につけられる。しかもその決定は民衆の目の届かない場所でおこなわれたことではなく、民衆もある意味加担していたといえます。その最後の決断は、民衆が下したことが伝えられています。

 バラバかイエス様かどちらか一人は釈放してやろうというピラトの呼びかけに対して、あろうことか民衆はこう答えたのです。「バラバを釈放しろ」と。バラバは当時有名な活動家でした。暴動と殺人の罪を犯していました。誰が見ても、大罪を犯したのはバラバであり、そうでないのはイエス様です。でも民衆は、「バラバを釈放しろ」と叫びました。そして続けて「イエスを十字架につけろ」とこぶしを上げ続けたのです。

 一週間も経っていないのに、どうしてここまで民衆の心は変わってしまったのでしょうか。クーデターをおこしてくれると期待していたのに、イエス様はどうもそういう感じではなかったからなのか。様々な理由が考えられます。金曜日の朝、彼ら民衆の目の前に現われたのは、直前の日曜に自分たちが迎え入れたときとは違いものすごくやつれ、ボロボロになったイエス様でした。こんな落ち目の人物はメシアなどではない。そう思って人々は見捨ててしまったというのも理由の一つかもしれません。

 ところで昔から教会は、「十字架上の七聖語」というものを大切にしています。イエス様が十字架上で語ったとされるもので、「渇く」や「成し遂げられた」など、その言葉に思いを寄せ、黙想することも少なくありません。これらのイエス様の言葉は、福音書ごとに異なっています。この福音書には書かれているけれども、あの福音書にはない。そのようなこともあります。そして今日読まれたルカ福音書にしか書かれていない言葉もあります。

 その一つがこの言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪者の一人に対して言われた言葉、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉です。今日はこの言葉について、ご一緒に思いを深めていきたいと思います。

 楽園とは天国のようなところでしょうか。それともエデンの園のようなところでしょうか。いずれにしても今いる場所よりは良いところのようです。イエス様も犯罪者も十字架の上で苦しんでいたのですから。

 イエス様の両隣には、二人の犯罪者がそれぞれ十字架につけられていました。この二人はイエス様に対し、対照的な言葉を浴びせます。一人はイエス様に対し、ののしってこう言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。

 それを聞いて、もう一人がたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

 彼はさらに言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。それに対してイエス様は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。

 この物語を普通に読めば、罪を犯し十字架につけられるような犯罪者でも、最後の最後に回心したら御国に招かれる。そういうことなのだろうと思います。でもそれだけでしたら、どうしてもスッキリしない部分があるんですね。それはわたしがもしその場にいたら、最初の犯罪者と同じように、「わたしを救ってみろ」とイエス様に叫んでしまうと思うからです。

 わたしたちは振り返ってみますと、すぐに神さまに対して不平・不満をもらしているように思います。「イエス様、なぜですか、どうしてですか」。その嘆きだけで終わらずに、「あなたは本当に救い主なのですか」、「何でもしてくれるという約束はうそだったのですか」、「イエス様、あなたは本当に一緒にいてくれているのですか」。

 2000年前、十字架を見上げて人々がつぶやいたように、「本当にメシアだったら下りてこい」と。2000年前、イエス様の横に並んで十字架につけられた犯罪者が言ったように「自分と我々を救ってみろ」と。それと同じことを、わたしたちは日々の祈りの中でイエス様に対して叫んでいるのかもしれません。叫びたくなる気持ちは痛いほどよくわかります。ウクライナの状況はますますひどくなるばかりです。コロナはわたしたちの大切にしてきた日常を奪い続けています。

 個人的なこと、家族とのこと、友人とのこと。仕事のこと。様々なことでわたしたちは傷つき、疲れ果て、イエス様に嘆き、叫びます。でもそこで思い起こしてほしいのです。わたしたちは一体どこにいるのか。そして同時にイエス様はどこにいるのかということを。

 イエス様と共に十字架につけられた二人の犯罪者。わたしたちは実は、そのうちの一人であると思うのです。暴動や殺人は、確かに犯していません。しかしすべては罪を犯しています。わたしたちは神さまを裏切り、神さまの前に正しいものであり続けることができないという重い十字架を背負っているのです。

 その状況にありながら、「わたしを救ってみろ」と叫ぶ。ある意味、滑稽です。自分の姿に気づいていないのですから。

 しかしイエス様は、そんなわたしたちのすぐ横で、わたしたちと同じように十字架につけられ、血を流しておられるのです。なぜ血を流す必要があったのか。それはわたしたちと同じ場所に立つため。わたしたちと同じ苦しみを受け、わたしたちと同じところまで下り、そしてわたしたちを導いてくださるためです。

 でもわたしたちは、なかなかそのことに気づきません。自分のことばかりに目が行き、イエス様がわたしたちのために苦しみを担ってくださっていることから目を背けてしまっているのです。「御国でわたしを思い出してください」などと言えないのです。

 イエス様は、そんなわたしたちのために祈られるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。この祈りは兵士のため、ピラトのため、民衆のため、犯罪者のため、そしてわたしたちと神さまとをとりなすために、ささげられています。

 いつか、いつも隣にいる自分に気づく日が来て欲しい、それがイエス様の願いなのです。来週わたしたちは、イエス様のご復活をお祝いします。そのときに一人ひとり目をあげ、イエス様がわたしたちのためになされたことを心から受け入れることができればと願います。