2021年2月14日<大斎節前主日>説教

「これはわたしの愛する子」

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マルコによる福音書9章2~9節

 今日は大斎節前主日です。わたしたちはこの水曜日に大斎始日、いわゆる灰の水曜日を迎え、大切な40日間を過ごしてまいります。大斎節について、大斎克己献金の封筒の中には、このような説明が入っていました。

 大斎節は、「信仰的な行いを普段の日よりも強く意識して自己をキリストと他者に献げたり、大斎克己献金をしたり、洗礼志願者となったつもりで教会の信仰を学び直して悔い改め、大祝日の準備としての『紫』の祭色の中を進みながら、喜びの復活日という『白』を目指します」。

 この言葉を聞くときに、わたしたちはどのような思いを持つでしょうか。悔い改め、懺悔、そのような言葉が連想されます。大斎始日の礼拝でも懺悔の祈りを大切にします。自分自身の信仰を振り返ること、これはとでも重要なことです。しかしあまりにそのことだけに力が入ってしまうと、少し窮屈な思いをもってしまうかもしれません。

 わたしたち人間の心のどこかには、素晴らしい信仰を持つことや、良いおこないをすることによって、神さまに近づくことができるという思いがあるのではないでしょうか。素晴らしい信仰を持つこと。良いおこないをすること。どちらもとても大切なことです。当然そうあった方がよいし、そのようになりたいとわたしたちは目指します。しかしそうならなければ、神さまの元には行けないのでしょうか。そういう人にのみ、神の国は開かれているのでしょうか。

 今日の場面、イエス様はペトロとヤコブ、ヨハネという三人の弟子を連れて、高い山に登りました。そのときに起きたのは、弟子たちが驚き、恐れるような出来事でした。イエス様の姿が変わり、エリヤとモーセが現れてイエス様と語り合った、そんな出来事でした。

 聖書を開いてみますと、この出来事の6日前、イエス様は弟子たちに対し、このようなことを語られている場面が書かれています。それはイエス様が多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、三日の後に復活することになっているという神さまのご計画でした。いわゆる最初の「受難予告」がこの出来事のつい6日前に語られていたのです。

 イエス様の受難予告からの数日間、弟子たちはどのような気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。寝食を共にし、その教えに聞き、共に歩んできた方。そのイエス様が無残な死を遂げるということを聞いた、彼ら弟子たちの心の中はどうだったのでしょう。

 恐れ、不安、悲しみ。様々な思いが心を支配し、目の前はずっと暗闇だったのではないかと想像します。しかしそんな彼らに、光が与えられるのです。それが今日の出来事です。山の上でイエス様の姿が変わり、エリヤとモーセがイエス様と語り合う。光り輝くまさに神の国です。その光景を、彼らは今、目の当たりにしたのです。

 思わずペトロが叫びます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロは山の上に、仮小屋を三つ建てることを提案するのです。

 仮小屋を三つ建てると聞いて、どういう状況を想像しますか。先日奈良基督教会では、礼拝堂耐震対策工事の竣工式が無事に終了しました。工事の期間、敷地内にはプレハブが正門前と牧師館の前の二か所に建てられていました。ここに出てくる仮小屋とは、そういうものでしょうか。

 仮小屋がそういうものだとしたら、「ちょっとの間、みなさんここでゆっくりしてくださいね」という感じに捉えることができます。仮設の建物、一時的な休憩所、そのようにイメージできるのではないでしょうか。

 しかしこの「仮小屋」と訳された言葉ですが、もともとの意味は「幕屋」という言葉です。幕屋というのは、神さまを礼拝する大切な場所、この礼拝堂と同じように考えてもいいのかもしれません。ペトロは山の上に幕屋を建てようとしたのです。そこに礼拝堂を建てて、イエス様たちにはずっとそのまま、いてもらおうとしたのです。

 これが何を意味するのか。ペトロはイエス様が山を下りて行かなければ、十字架につけられることはないに違いないと思ったのかもしれません。あるいは自分たちが目の当たりにした栄光を、そのまま留めておきたかったのかもしれません。

 しかしイエス様が山に留まるということ、それは山の上にたどり着く者でなければ、イエス様と関わることができないということになります。素晴らしい信仰を持ち、良いおこないをする人でなければ、山に登り、イエス様の元には行くことはできないということを意味すると考えることもできるのです。

 もしそうなってしまったら、どうでしょうか。少なくともわたしは困ります。自分のことは自分自身が一番よく知っているからです。真っ直ぐに山頂を目指して進むことなどできない。周りの誘惑を振り切りながら、歩き続けることなどできないのです。

 でも神さまのみ心は、イエス様が山に留まることではありませんでした。イエス様は、山を下りて来られました。下には十字架への道があるということを知っていながら、山を下りる選択をなさいました。山のふもとには、自分の力で山に登れない多くの人がいました。その中に、わたしたちもいます。イエス様はわたしたち一人一人のために、自ら下りて来てくださるのです。

 特に今年、コロナ過の中だからこそ、このイエス様の姿を分かち合いたいと思います。わたしたちは今まで、この階段の上に建つ教会を目指して歩んできました。日曜日になれば多くの人とここで祈り、交わりを持ってきました。しかし今、礼拝堂で祈ることすらできない、そのような人が多くおられます。コロナだけではない、様々な要因で教会に来ることのできない人を覚えます。神さまはそのような人を見捨てられるのでしょうか。

 決してそうではありません。山に登ることができなくても、階段の上に建つ教会に来ることができなくても、神さまは必ずその人に手を差し伸べられます。それはイエス様が、山の上の仮小屋に、幕屋に留まらなかったからなのです。

 まもなく大斎節が始まります。山を下り、十字架へと歩んでいかれるイエス様の姿に、わたしたちは神さまの大きな愛を感じていきたいと思います。