2021年9月26日<聖霊降臨後第18主日(特定21)>説教

神さまの懐を思い浮かべよう

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マルコによる福音書9章38~48節

 キリスト教にはいろいろな教派がある中で、私は聖公会が好きです。聖公会というのは、16世紀にイギリスで起こった宗教改革を経てローマ・カトリック教会から独立した教派ですが、一概にプロテスタント諸教会と同列であるとは言えません。同時期にヨーロッパ大陸で宗教改革によってできたプロテスタント教会(ルーテル派、カルヴァン派や改革派など)そして、後にイギリス国教会(聖公会)から分離したピューリタンたちによる新しい教会は、カトリックの礼拝における儀式的要素や聖人伝承をほとんど取り除きました。聖書と信仰のみが大切であるとしたのです。その点、聖公会は、ローマ・カトリック教会に受け継がれてきた主教、司祭、執事の三聖職位と、礼拝の儀式的要素の多くをそのまま残した上で、聖書と信仰を大切にするプロテスタントの教えを取り入れました。ですから、聖公会はよくカトリックとプロテスタントの中間を行く教会といわれます。決して道の片側に寄ることなく、常に中道を歩きながら両側にいる人たちと対話をし、橋渡しをする、そして神の御心と真理を求め続ける、解釈し続ける教会と言われています。この聖公会という教会のもつ幅の広さ、これが絶対に正しいと人間の思いで断言しないところ、真理は神のみが知っておられるという立場を取る謙虚さは素晴らしいものとわたしは確信しています。もちろん、厳格な教派から見ると、わたしたちはどっちつかずであり、生ぬるく、いい加減である、それは聖書を真剣に読んでいない証拠だと、批判されても仕方ない部分があるのも事実です。

 息子と作っているYouTubeでの教会案内動画、今回は、この教会の前に立つ母子像を取り上げました。わたしは、てっきり赤ちゃんのイエス様を抱いた聖母マリア像だと思っていましたが、昨年夫と共に赴任した時に、前任の牧師から、これは聖母子像ではなく、単なる母子像ですと教えられました。なんで聖母子像だったらダメなんだろう?と素朴な疑問を持ちながらも、クリスチャンでない幼稚園の保護者の皆さんからしたらマリア様とイエス様より普通の人間の親子の像の方が親しみやすくて良いのかもしれないと納得しました。そして後になって、いろんな方から、うちはカトリックでないからマリアさんの像を置くのはおかしいので、あれは母子像ということにしているらしいという説明を聞きました。そして、もう一つ驚いたことには、草木で隠されていますが、母子像の隣にお地蔵さんが置かれているのです。これまたよく分からないのですが、おそらく明治維新の頃の廃仏毀釈で井戸に捨てられた興福寺のお地蔵さんが救出されて、いつの頃か分からないけれども誰かがひっそりとここに置いたのだろうということです。とても不思議なこの二つの像、追い出されることもなく今やしっかり奈良基督教会の一部になっていることに、わたしはほっこりした気持ちにさせられます。神さまは、わたしたちがどんな人間であろうと、どんな背景を持っていようと、ありのままのわたしたちを愛し、両腕を広げて受け入れてくださる方であって、そのことを福音として伝えるのが教会です。そして、この二つの像がその教会の使命を表してように感じるのです。

 そんなことを先週考えていましたら、今日読まれる聖書日課から同じメッセージがわたしたちに伝えられていることに驚きました。まず、旧約聖書は民数記、モーセがエジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を導き出し、荒れ野で40年間放浪していた時の出来事が書かれています。人々は食べ物がなく、飢えで苦しみ、モーセに訴えました。モーセは自分の力では最早どうすることもできず、神に苦しい心の内をぶちまけます。すると神はモーセに70人の長老を臨在の幕屋の周りに立たせるように命じられました。モーセに授けられていた神の霊を彼らの上にも分け与えられたのです。長老たちはすぐさま預言状態になりました。神の力を受けたことのしるしです。ところが、この選ばれた70人の長老たちの内二人は、皆が立っていたところには来ずに、宿営に残っていたのです。しかし、その二人の上にもほかの68人と同じように霊がとどまり、彼らも預言状態になりました。そのことを知って焦ったモーセの一番弟子、ヨシュアは彼に告げます。「先生、やめさせてください」。この二人は命令に従わず幕屋に来なかった。この失礼極まりない態度は罰せられて当然だし、神の霊を受けるに値しない。ヨシュアはそう判断したのです。ところが、モーセは小さな子どもを諭すように、やさしく言われました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起しているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだよ」と。

 今日の福音書の中では、イエスの弟子たちにも同じようなことが起こります。弟子の一人、ヨハネが息せき切ってイエスのところへ来て言いました。「先生、弟子でもないのに、先生のお名前を勝手に使って悪霊を追い出している者を見ました。わたしたちに従うよう諭したのですが、拒否するので、その行為をやめさせました」と。まるで、鬼の首を取ったかのようにヨハネはこう報告したのです。すると、予想だにしない言葉が主から返ってきました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしについて悪いことは言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのだよ。」

 わたしたちはどうしても、自分たちの仲間でなかったり、自分たちが作ったルールや常識、暗黙の了解を守らない人がいたらグループから排除しようとします。けれども、神さまの懐は、わたしたちには計り知れないほど大きいのです。反対にわたしたちは何て小っちゃいのでしょう。旧約のヨシュアも、福音書のヨハネも、そして現代に生きるわたしも。わたしたちはみんな、信仰を持ち、神さまのことを思って一生懸命行動しようとするあまり、人を裁いてしまいます。これはほんとうに悲しいことです。

 主イエスは、続けて言われるのです。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と。キリストの名のために人を裁くのではなく、キリストの名のために人を愛すること、そして受け入れること――これが、神さまがわたしたちに求めておられることなのです。

 聖公会にいるわたしたちは、ほんとうにラッキーだと言わざるを得ません。本来的に人を裁く位置に立っていないからです。わたしたちは、あらゆる絶対主義を否定し、真理を追究し続けながら中道を歩きます。そして、両側にいる人たちと手を取り合って対話をし、互いを結び合わせる使命を持っています。

 20世紀初頭にカンタベリー大主教となった、ウイリアム・テンプルは、今やこれだけ分裂してしまった各教派、教会をもう一度キリストのために一致させようというエキュメニカル運動を推進し、ある有名な言葉を残しました。「聖公会の使命は教会一致のために消え去ることである」というものです。自分の命を捨てる覚悟でまわりの人を愛し、受け入れるということ、それは、自分たちの立場を守るためにまわりを裁くことの真逆です。必ずしもまわりを裁いてはないとしても、聖公会は内向きであるとよく言われます。外を向いて歩いてみましょう。そしてキリストにつながるまわりの教会の人たち、そして様々な宗教をもつ人々と手をつなごうではありませんか。神さまの、この世ではありえない、わたしたちには想像できないほどの太っ腹さに打ちのめされるに違いありません。

 最後に、本日の使徒書ヤコブの手紙からの一節を心に留めたいと思います。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります…隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」