2021年11月21日<降臨節前主日(特定29)>説教

「小さなろば」

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マルコによる福音書11章1~11節

 教会では11月30日に最も近い日曜日を降臨節第1主日と呼び、そこからアドベントが始まります。今年は11月28日がその日にあたり、教会暦ではその日が一年の始まりです。つまり今日はいわば「大みそか」です。今日、この礼拝の中で思い起こして行きましょう。わたしたちにとって、今年はどんな一年だったのか。わたしたちは神さまのために、何かできたのだろうか。そして新しい年、わたしたちはどう生きるべきなのか。

 さて、今日読まれた福音書です。イエス様がエルサレムへと入って行かれる場面が読まれました。イエス様がなぜエルサレムに入られたのか。そしてエルサレムに入ったあと、どうなったのか。少し説明しておく必要があると思います。イエス様はこの箇所の前、三度も自分がどのような最期をとげられるのかを弟子たちに伝えてきました。それは、人々に棄てられ、死に引き渡されるということです。その後、復活するということも予告されていましたが、弟子たちの心には「死」というものが深く刻まれていたでしょう。そしてその「死」に向かうためにエルサレムを目指すことも、イエス様は言われていました。

 その後、エルサレムに入られたイエス様は、それから一週間もたたないうちに十字架につけられます。今日の場面で「ホサナ、ホサナ」と叫んでいた群衆は、「十字架につけろ」と叫び、イエス様の周りに従っていた弟子たちは、みんな恐れて逃げていきます。そのような出来事がまもなく、自分の身に起こることをイエス様は誰よりもご存じでした。そしてそれは、神さまのご計画であることもよくわかっていました。イエス様はだから、今日の場面を通して、わたしたちに一番大切なことを教えてくれているように思います。

 先ほどもお話ししたように、今日の箇所の中でイエス様はエルサレムに入られます。エルサレム神殿は当時、ユダヤの中心でした。政治の、経済の、そして宗教の中心地として大変にぎわっていました。過越祭、仮庵祭、七週祭のときには、ユダヤの男性はみな、自分の住んでいる場所からエルサレム神殿を目指してやってきました。たくさんの人たちがいけにえやささげものを携えて、礼拝するためにやってきました。イエス様がエルサレムに来られたのは、ちょうど過越祭が始まろうとしていた頃でした。そこには多くのユダヤ人が、ユダヤ中からやって来ていたことでしょう。すでにイエス様の名前は多くの人に知れ渡っています。ユダヤの宗教指導者たちは、イエス様が群衆を扇動してクーデターを起こすのではないかとひやひやしていたと思います。

 一方群衆は、イエス様がエルサレムに来たことによって、自分たちが、目の前にある苦しみから解放されるのではないかと期待していました。ローマを倒し、その圧政から解放され、自由に生きていくことができるのではと考えました。

 そのような人々の思いを背中に受けながら、今日の福音書の場面へと進んでいくわけですが、どうでしょうか。今日の場面を想像してみたときに、違和感を覚えないでしょうか。イエス様がエルサレム神殿へと向かわれる。その姿を王様と重ね合わせて、人々は「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ。地面には人々が脱ぎ捨てた上着が敷かれ、人々も一緒についてくる。

 ところがその中に、その場に似つかわしくない動物が紛れ込んでいます。イエス様はご自分がエルサレムに入るときに、弟子たちに命じてある動物を連れてくるように命じました。その動物とは、だれも乗ったことのない子ろばでした。そのロバに乗ってエルサレム神殿に入ることを、イエス様は選択されました。

 大河ドラマで合戦のシーンが出てきたとしても、登場するのは馬ばかりです。馬の背に乗ると、高い所から周りを見渡せる。また俊敏な動きで、相手をかく乱できる。さらに馬は、乗り手の言うことをよく聞くそうです。それに対してろばは、まず背が低い。動きも鈍くさい。決められたことは根気よくやるけれども、新しいことは苦手。何より不格好です。さらに「だれも乗ったことのない子ろば」ですから、イエス様がまたがったときに、足がついてしまうかもしれない。

 前に勤務していた教会で、この子ろばの物語を創作してお話ししたことがありました。こんなお話しです。あるところに、子ろばがいました。その子ろばは馬や、ろばのお兄さんにあこがれていました。いろんな人を載せたり、働いたり、カッコいいなあって思っていました。でも自分は何にもできない、その子ろばは悲しんでいました。

 そんな子ろばに乗りたいと、イエス様は言ってこられます。最初は「僕なんて無理だよ」って思いましたが、そのイエス様の呼びかけに応えようと決めました。でもイエス様と一緒にエルサレム神殿に入ろうとしたときに、周りからヒソヒソつぶやく声が聞こえます。

 「カッコ悪いね、あんな子ろばに乗って」、「もっとちゃんとした馬に乗ったらいいのに」。子ろばはその言葉を聞いて、恥ずかしくなりました。逃げ出したくなりました。

 しかしイエス様は子ろばの首を優しくさすりながら、こう言ってくれました。「ありがとう。わたしには君が必要だったんだ」。

 「ちいろば先生」と呼ばれた榎本保郎牧師は、自分は小さなろば、つまり「ちいろば」として、イエス様の呼びかけに応え、イエス様と共に歩むことを決断されました。わたしたちはどうでしょう。立派な馬のように、さっそうと駆け巡り、周りの人たちから羨望のまなざしを集め、見事に仕事をおこなっていく。そうなれたらいいかもしれません。

 でもイエス様が求めておられるのは、そうではない。目立たなくても、不格好でも、対して役に立たなくってもいいのです。子ろば、小さなろばのように、ただ ただイエス様と共に歩む。イエス様との歩みの中で、たいしたことはできないかもしれないけれども、自分ができることをしていく。そのことが大切なのではないでしょうか。

 来週から教会では新しい一年の始まりを迎えます。この二年間、様々な集まりに制約が掛けられました。今年のイブ礼拝もどうするか、最終的な判断は来月12日まで待つことになっています。

 まだ以前のように礼拝はできない。食事も一緒に食べることができない。でもわたしたちは、小さなロバとして自分たちができることをそれぞれやれてきたのではないでしょうか。

 新しい年、何ができるでしょうか。イエス様と共に歩む中で、どんなことをさせてもらえるでしょうか。教会として、また個人として、求めることが出来たらと思います。来週からの降臨節の中で、心を静め、イエス様をお迎えするよき準備をしてまいりましょう。