2021年2月21日<大斎節第1主日>説教

「荒れ野の誘惑」

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マルコによる福音書1章9~13節

 先週の水曜日、教会は大斎始日を迎えました。そしてその日から大斎節、紫の期節が始まりました。この2月17日の大斎始日から復活日の前日、聖土曜日まで、日曜日を除くと40日間あります。40という数字は、聖書の中に多く登場します。ノアの箱舟の場面では40日40夜雨が降り続いたとありますし、出エジプト記ではイスラエルの人たちが荒れ野をさまよったのは40年と書かれています。さらに十戒を受け取るときに、モーセは40日間シナイ山にとどまった記述など、40という数字は、聖書の中では身近なものです。そしてこの40という数字は、文字通りの40という意味だけではなく、長い間ということをあわらしています。

 つまりイエス様が受けた荒れ野の誘惑は、40日間どころではない、とても長い期間という意味も持ちます。しかし今日の聖書、マルコによる福音書の中では、非常に簡潔に描かれています。マルコ福音書には、他の福音書のようにサタンによる三度の誘惑は書かれておらず、この2節だけです。

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 この短い聖書の箇所がわたしたちに何を伝えようとしているのか、ご一緒に分かち合っていきたいと思います。

 最初に注目したいのは、“霊”がイエス様を荒れ野に送り出したということです。荒れ野はサタンが誘惑するような場所です。人里離れた寂しい所です。そこに連れていくような霊は、きっと悪霊の仲間なのではないだろうかと思うかもしれません。

 しかし違うんですね。聖書をよく見てみますと、霊と書かれた左右に“  ”がつけられています。これは何か。多くの聖書には、前の方に凡例というページがあります。そこに、この“  ”について、説明が書かれています。

 “  ”、新約聖書において、底本の字義どおり、「霊」と訳した個所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合には前後に“ ”を付けた。

 つまりこういうことです。イエス様を荒れ野に送り出したのは、ただの霊ではありません。“  ”がつけられているということは、神さまの霊なのだということなのです。つまりイエス様を誘惑へと導いたのは、神さまの思いなのです。

 今日の福音書の前半部分は、イエス様が洗礼を受けられた場面でした。そして洗礼が終わるとすぐに、神さまはイエス様を荒れ野に向かわせます。その理由は、その荒れ野という場所で40日間、イエス様がサタンから誘惑を受けるようにするためなのです。それが神さまのみ心だったというのは、一体どういうことなのでしょうか。神さまはどうして愛する独り子をそのような場所に遣わされたのでしょうか。このシンプルな誘惑物語で福音書がわたしたちに伝えたいことは、神さま自らがイエス様を荒れ野に遣わしたこと、そして長い間サタンから誘惑を受け、野獣とともにいたこと、さらにイエス様に天使が仕えていたということだけなのです。

 荒れ野、サタン、野獣。それぞれの言葉に少し心を向けてみましょう。荒れ野とはどんな場所でしょうか。草木も生えず、大きな岩がゴツゴツしていて、ひと気のない場所。この言葉には「人から見捨てられた場所」という意味もあるそうです。そのような場所、心当たりはないでしょうか。

 サタン、悪魔。どこにいるでしょうか。遠い、遠い世界ですか。昔、子どもに聞いたことがあります。「神さまってどこにいる?」って。子どもは自分の胸を指さしながら、「ここ」って答えました。次に「じゃあ、悪魔は?」って聞いたときに、こう言いました。「悪魔もここにいるよ」って。彼が指さしたのは、神さまがいるといった場所と同じ、自分の胸でした。

 野獣。野の獣です。アダムとエバがエデンの園にいたころ、人間も野獣も仲良く暮らしていました。でも楽園を追い出されて、人間と野獣は敵対するものとなってしまいました。自分の敵、自分を認めてくれない人、自分の存在を消そうとする人。それらの人を野獣と呼んでしまうのは乱暴でしょうか。

 しかし思い起こす中で、わたしたちは気づきます。わたしたちのすぐそばには荒れ野があり、わたしたちの心の片隅にはサタンがおり、わたしたちの周りには野獣がいる。いや、こう思う人もおられるかもしれません。わたしたちは今まさに荒れ野におり、わたしたちの心はサタンが支配しており、そしてわたしたち自身が神さまから見たら野獣なのではないかと。

 そこにイエス様がとどまり続けておられること、劇的に、ドラマのようにサタンを追い出すのではなく、荒れ野でサタンから誘惑を受けられながらも、野獣と一緒におられ続けるイエス様の姿に、わたしたちは何を見るのでしょうか。

 コロナの中での大斎節、わたしたちはそれぞれの場所でもがき、苦しんでいます。泥沼から抜け出せない。しかしその苦しみを理解して、そばに来てくださる方、そこに居続ける方がおられるということを、わたしたちは覚えていきたいと思います。